2012年(平成24年)8月10日号

No.547

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安全地帯(366)

市ヶ谷 一郎


米軍相模湾上陸作戦と鎌倉街道


 「すべての道は、ローマに通ず」と同じく、日本の中世、鎌倉時代に軍事・民事の必要性のため、源頼朝が、京と鎌倉の古東海道以外、都市鎌倉に信州方面より碓氷峠越え高崎、入間、府中、町田を経て鎌倉に至る上道(かみつみち)を主街道に、北、西関東よりの道が数本開設された。今でも「鎌倉街道」の道名が諸所に残っているし、多摩丘陵や府中には古道跡があるのがお判りだろう。
 
 とき移り、建武の中興で、元弘3(1333)年5月8日上野(群馬県)の新田義貞が挙兵し、鎌倉北条氏滅亡のため、進軍した道がこの道であり、後の関東の戦乱にもしばしば使われた、関東平野の南北を結ぶ軍用道路であった。

 30年ほど前、神奈川偕行会(旧軍人の会)が鎌倉円覚寺で竹田恒徳(つねよし)氏(註…昭和天皇のいとこにあたり、終戦時参謀中佐、天皇特使として満州へ終戦、武装解除の厳命に赴かれる。戦後皇室離脱され竹田姓、オリンピック委員会会長など歴任、平成4年死去)をお招きして講演会があった。たいへん平俗で、皇族ぶらず親しみのあるご立派な方で、葉山に島をお持ちになっていらしゃったことなど面白いお話があった。 

 そのなかで米占領軍として日本に進駐していたアイケルバーカー中将(註…太平洋の離島攻撃歴戦の軍人)より直接聞いた話とし、終戦間近、米軍は日本本土攻撃の一環として相模湾上陸作戦(コロネット…蹄状の女性冠…作戦と称した)を企図(きと)していた。そして、米軍の上陸目標の一つに海岸に青い屋根のある建物があったという。竹田氏は葉山近くのご別邸から戦後、見に行かれ確認されたそうだ。あとで私も調べに行ったところ、まだ江の島海岸西浜近くにあって、米軍の偵察、情報網の正確さには驚いた。戦が続いたらこのあたりは横浜、東京攻撃を目指す主戦場、つまり、アジアのノルマンディ作戦になったのだろう。ちなみに相模湾の湘南海岸で迎え撃つ日本軍は、第53軍で軍司令官は、日中戦の猛将、赤鬼こと赤柴八重蔵中将(昭和20年4月7日拝命)、軍司令部は座間の陸軍士官学校(のち厚木に移動)であった。

 米軍はチガサキビーチ(湘南海岸)と称し、相模川より東側に上陸すると橋頭保(きょうとうほ)を確保し、北上を開始し町田市あたりより一部が西方より横浜攻撃に、更に多摩川を渡河、日野市方面より甲州街道に沿って東京を攻撃する。さらに機甲師団は鎌倉街道を北上し古河市、熊谷市の線で東北、信州方面よりの日本軍の増援を遮断,事後東京を北部より攻撃する。他方鹿島灘、九十九里より上陸の米友軍と馬蹄形に首都を包囲し、攻撃する作戦であったのだ。両軍、あらゆる兵器を動員した壮絶な激戦になるのは、必須であっただろう。

 問題の、主とした相模・関東平野を北上するコースは、まさに、頼朝の作った「鎌倉街道の上道」を逆に北上している。渡河する大河は府中あたりの多摩川(私の子供のころはよく泳いだ記憶があり、あの辺は余り深くない)、低山の多摩丘陵を除き、平たんな関東台地を利用できる。日本軍の飛行場も相当数あり、実に米軍の調査が綿密周到なのに驚かされ、頼朝の作った鎌倉街道の重要性を改めて知らされた。

 かくて、戦は終わり67年、風光明媚なチガサキビーチは、何も知らないサーフィンや海水浴の若者で賑わっている。 
        
参考文献
「相模湾上陸作戦」大西比呂志・栗田尚弥・小風秀雅共著、有隣堂発行
「旧鎌倉街道探索の旅」芳賀善次郎著 さきたま出版発行
太平記  日本史年表