2012年(平成24年)8月1日号

No.546

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安全地帯(365)

信濃 太郎


映画「プリンセス・カイウラニ」


 夕方の約束した時間に間があったので映画館に涼を求めた。映画はイギリス人監督マーク・フォーピー監督の「プリンセス・カイウラニ」であった(7月18日新宿武蔵野館3)。ヴィクトリア・カイウラニはハワイ王朝最後のプリンセスでる。父親はスコットランド生まれのアーチポルト・S・クレゴーン。母親はカラカウア王の妹ミリアム・リケリケ王女である。ハワイがアメリカに併合されたのが1898年である。今年で114年たつ。ハワイにも王朝があった。カメハメハ1世に始まるハワイ王朝で、わずか103年で終わった。

 カイウラニ王女はイギリスで教育を受けハワイ語にも英語にも堪能であった。第一位の王位継承権を持つ彼女がイギリスに留学中に、米系移民、アメリカ公使によりクーデターで暫定政府が樹立し、王朝が事実上崩壊した。彼女は女王となることもなく併合の1年後24歳で死去する。彼女が最後まで大切にしたのはハワイという土地への愛着とハワイ先住民への深い思いやりであった。

 映画ではイギリスの留学の止宿先の青年とのラブストーリーを織り交ぜながら米系移民が次第に勢力を広め貧弱な武器しか持たない先住民を圧倒殲滅するシーンなどが出てくる。王朝の崩壊も実にあっけない。覇権を求めてやまない大国の野望は果てしない。昔も今もその怖さは変わらない。買い求めたカタログに「第7代カラカウア王は当初親米政策をとるが、米帝国主義と米系移民の圧力に悩まされ、外交改善を名目に1881年(明治14年)から世界周遊の旅に出る。この時日本にも立ち寄り明治天皇と謁見山階宮定麿(当時13歳。注、別の本では15歳・海軍兵学校に在学中)とカイウラニ王女(当時5歳)との縁談を申し出るが実現できなかった」とあった。この時、国王に随行員であったウィリアム・アームストロングが1904年(明治37年)に出した「旅行記」に次のように書いている。「国王は近い将来アメリカがハワイ王国を吸収合併するかもしれないという漠然とした危惧を抱いていた。そこで国王は日本の皇室の一員と、将来は王位継承者と考えている姪のカイウラニ王女との婚約を提案したのである。もしこれが実現すればアメリカのハワイ合併案に対し、ごく自然に日本政府が反対の立場をとることになるであろう」。この提案に当時29歳の明治天皇は驚かれたという。アームストロングは帰国後この話が実現するようなことがあったらハワイ王国は日本領となる運命をたどったかもしれないと思ったという(猿谷要著「ハワイ王朝最後の女王」・文芸春秋)。歴史にIFが許されると、いろいろ想像できておもしろい。ちなみに山階定麿はのちの東伏見依仁親王殿下で海軍大将・元帥に上られる。妃殿下は岩倉具視の長女周子様である。東伏見宮は大正11年6月56歳で死去された。映画は意外な暦史を教え呉れるものだ。