2012年(平成24年)8月1日号

No.546

銀座一丁目新聞

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花ある風景(463)

 

並木 徹

 

 井上ひさしの「しみじみ日本・乃木大将」に感あり
 

 こまつ座・ホリプロ公演の「しみじみ日本・乃木大将」を見る(7月19日‣彩の国さいたま芸術劇場)。原作・井上ひさし、演出・蜷川幸雄。乃木大将の愛馬3頭と雌馬2頭の前脚と後ろ脚を使って「乃木大将」と「明治」を語らせる、馬が話をするという、井上ひさしらしい奇抜なお芝居である。

 「時」は大正元年(1912年)9月13日明治天皇大葬の日。乃木大将の肩書は「陸軍大将軍事参議官学習院長従二位功一級」である。明治天皇は乃木大将を信頼され昭和天皇を始め秩父宮、高松宮などお孫さんの教育を任された。日露戦争の際、多くの犠牲者を出しながら旅順要塞を攻略出来ない乃木大将に解任の話が出た時に明治天皇は「乃木が死ぬであろう」とお許しにならなかった。西南戦争の際、熊本鎮台救援に赴く途中、軍旗を賊軍に奪われる(明治10年2月22日)。友人・児玉源太郎のはからいで自分の命を明治天皇に預けることになる。乃木大将の西南戦争後の生き方は死ぬ場所と死ぬ時を求めるものであった。軍旗は明治7年1月23日,近衛歩兵第一・第二連隊二始めて親授された。軍旗は連隊にとって天皇の象徴であり、団結の核心、士気振作の源泉であった。敵軍に奪われるのは恥辱であった。軍旗は終戦までに歩兵連隊に409旗,後備歩兵連隊に57旗、騎兵連隊に31旗が親授された。舞台では乃木小倉歩兵14連隊隊長心得への元に実弟玉木正誼が来訪,挙兵する前原一誠に加担するよう説得する場面が出てくる。その際、当番兵がこぼしたお茶を軍旗で拭く取る所作をしばしばみせる。井上ひさし一流の”反軍の思想”の表明であろうが、昔なら軍旗冒涜で非難される。私もよい気持ちはしなかった。

 次に世を惑わせている乃木大将愚将説。舞台では乃木家へ書生希望の出入りの酒屋の小僧に言わせる。「乃木は奇襲とか搦め手から攻めることを知らぬ。だから旅順でもただ真正面から攻め込むだけ,おかげで6万人もの日本軍兵士の血が無駄に流されてしまったという人も大勢おります。ようやく搦め手の203高地から攻め、そこを落として旅順攻略の糸口を作った。確かに乃木将軍は無能です。木偶の坊です」。このころ銃後の乃木邸では「弱虫将軍」とか「人殺し」と言った罵声を浴びせられ,塀は落書きが絶えることがなかった。犬や猫の死体を放り込んで行くものもあった。だが乃木将軍愚将説は全くのいわれもない誹謗である。第3軍の旅順要塞正面攻撃は大本営も認めた作戦である。作家・古川薫によれば第一次世界大戦におけるヴェルダン要塞攻防戦ではドイツ軍34万、フランス軍36万の死傷者を出している。乃木将軍の旅順要塞戦の指揮がそれほど拙劣だったわけではなく,故意による中傷であると言う。

 明治39年1月14日乃木将軍は帰国するや明治天皇に復命書を朗読する。他の将軍が実施した作戦の勝利を報告したのに対して率直な「自己批判」であった。己の功績を誇らず、将兵の忠勇さを強調、戦没者を悼んだ。しかも潔く作戦の失敗をも認めた。愚直な乃木大将らしい。

 初め幕が上がると観客の前に厩舎に3頭の馬が出てくる。この馬たちがこの芝居の主役である。紹介すると、「寿号(ことぶきごう)」流星の栗毛・10歳‣正馬。「璞号(あらたまごう)」流星の鹿毛・6歳・副馬。「乃木号(のぎごう)」紅梅の葦毛・5歳・水師営でスッテセル将軍から贈られたアラブ産白馬「寿号(すごう)」の子。「紅号(くれないごう)」隣の毛利邸のメスの飼馬。「英号(はなぶさ)」六本木の馬車屋のメスの馬車馬など5頭である。乃木将軍の厩舎は邸宅より立派だといわれた。煉瓦造りで4頭の馬が収容するスペースがあったという。

 お芝居では馬たちは乃木夫妻のただならぬ様子に不安にかられ、それぞれに発言する。蜷川の巧みな演出によって役者たちはさらに自由に立ち回る。見ていて楽しい。だが私は別のことが頭に浮かぶ。学習院院長就任について乃木将軍は親友の一人に相談する。友人は「明治天皇が求めているのは専門家ではなくて新しく大胆に教育に取り組む人です。最近の遊情に流れつつある華族を鍛え直すには軍律の厳しさを身に付けたあなたしかいませんよ」といった。乃木大将が真っ先に取り上げた教育方針は「実践躬行」、生徒に求めたのは「質実剛健」であった。四谷見附にあった学習院へ乃木大将は赤坂の自宅から毎朝馬に乗って通勤した。後に学習院が目白に移ってから院内に寄宿した。昨今のいじめが絶えない小中学校の校長達の感想を聞きたいものだ。

 今年は乃木大将が静子夫人と殉死されて100年目を迎える。富国強兵を旗印に日清戦争、日露戦争を戦い強国にのし上がった日本は大正をへて昭和20年8月、敗戦を迎える。戦後一度も戦争をせずに67年。余りにも平和に安住しすぎる。そのツケがここにきて顕著に表れてきた。

 「敵が攻めてきたらあなたがどうするか」の質問に殆どの若者が「逃げる」と答える昨今である。軍旗を賊軍に奪われて死に場所を求めて、負傷した身を人夫にモッコを担がせ戦場に向かった。怖がってひるむ人夫にカネをばらまいて戦場を駆け回る乃木大将である。現代人には道化を通り越して狂気にしか写らないであろう。それを「愚直」という。しみじみ日本を眺めれば「愚直」な日本人は少なくなった。

 日露戦争で勝典、希典の2児を失った乃木大将は金州城外で歌う。「山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州城外立斜陽」

 ここに乃木大将の万感の思いがこもる。井上ひさしの奇抜なパロディ劇を見た観客はこの漢詩にどのような感想を持つであろうか。