2012年(平成24年)6月10日号

No.541

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(456)

新藤兼人監督を偲ぶ

 

 亡くなった新藤兼人監督(5月29日、享年100歳)は死ぬまで仕事をした。敬服に値する。最後の映画は「一枚のハガキ」であった。49作目、99歳の作品である。戦時中入団した呉海兵団の経験をもとに戦死した兵士と残された家族を描く。その筋は大東亜戦争末期、招集された松山啓太ら中年兵100名は、くじ引きで決められた戦地に赴任する。フィリピンに送られる仲間の一人から、妻より送られてきた一枚のハガキを手渡される。もし啓太が生き延びたら、妻にハガキは読んだと伝えてくれと依頼される。やがて戦争が終わり、生き残ったのは啓太を含め100名のうち6名だけであった。テーマは『戦争反対』。訴えるのは『戦争のばかばかしさ。その不条理さ』であった。くじ引きと言えば。航空に行った同期生が満洲で操縦の訓練中、ソ連の侵攻を受け日本に引き揚げる際、杏樹飛行場では先発組と後発組をじゃんけんで決めた。じゃんけんで負けた後発組80人が引揚途中、ソ連軍に捕まり、シベリアに抑留、4人の死者を出すなど辛酸をなめたのを思い出す。

 この『一枚のハガキ』の姉妹編と言う映画が2007年8月に監督・山本保博の映画『陸に上がった軍艦」として公開されている。この映画には新藤監督が原作・脚本・証言者として出演している。時は1944年。新藤は、脚本家として認められたときに妻を亡くした。その直後に呉海兵団に海軍二等水平として召集される。最後は宝塚海軍航空隊で敗戦を迎えるまでの過酷な軍隊の日常を、ドラマの部分で描いている。新藤と呉海兵団に同期入隊した兵士は100名。全員が奈良天理市の航空隊に転属。海軍が接収した天理教本部を予科練の航空隊にした。入隊前の宿舎の掃除、整備が任務だった。任務が終わると100名の内60名が比島マニラ派遣途中、輸送船が攻撃され全員戦死。次に30名が潜水艦に乗船したが消息を絶った。残った10名が雑役班として、今度は海軍に接収された「宝塚少女歌劇団」の施設、宝塚海軍航空隊に異動。大量の予科練習生を迎えるため掃除、改修を行った。途中で4名が海防艦に移り(消息不明)、結局6名が残った。練習生が入隊後は、風呂焚き、肥え汲みなど裏方の仕事を敗戦まで続けさせられた。

 新藤監督の姿勢は第三回作品「原爆の子」(昭和27年・乙羽信子、細川ちか子、清水将夫、滝沢修、宇野重吉、殿山泰司)から一貫して変わらない。この映画は原爆の悲惨さに初めて真正面から取り組んだ作品として内外から評判を呼ぶ。監督は40歳であった。新藤は明治45年4月、広島県佐伯郡石内村(現広島市佐伯区)で生まれた。広島市は彼の生まれ故郷である。原爆投下時、兵庫県宝塚海軍航空隊に所属しており,被曝を免れた。この航空隊があったのが宝塚少女歌劇団の施設で、新藤監督はこの図書館にあった演劇の書をすべて読破したという。

 新藤監督は昭和12年ごろ、「映画評論」に応募した『土を失った百姓』のシナリオが当選一席になった事から頭角を現す。溝口健二監督の助手となり脚本を修行する。戦争中は統制経済の枠のもとで映画は一つの撮影所で年間5,6本しか作られなかった。シナリオの映画化は容易ではなかった。新藤監督の夫人孝子さんは昭和18年8月7日死去する。監督を献身的に支えた方である。その苦労話が第一回作品『愛妻物語』(昭和26年・乙羽信子、宇野重吉、滝沢修)となる。脚本家としては吉村公三郎監督の『安城家の舞踏会』(原節子、森雅之、滝沢修、津島恵子)『誘惑』(原節子、佐分利信、杉村春子)『わが生涯の輝ける日』(山口淑子、滝沢修、森雅之、宇野重吉)『嫉妬』(高峰三枝子、佐分利信)などつぎからつぎとヒット作品を生んだ。

 「原爆の子」から7年後の昭和34年、映画「第五福竜丸」を製作する。事件は昭和27年3月1日午前3時42分南太平洋ビキニ環礁付近でマグロ漁船「第五福竜丸」がアメリカの水爆実験の“死の灰”を浴びたことから起きる。無線長の久保山愛吉さん(宇野重吉)が原爆症で死んだ事件である。読売新聞が特ダネにしたニュースであった。新藤さんは死の灰の恐ろしさを見事までに追及した。新藤監督には時代を適確に見抜く見識を持ちそれを大衆に分かりやすく説明する表現力を持っていたということであろう。世間ではそれを社会派の映画監督と言い、時代状況への異議申し立てと表現する。新藤監督に言わせれば目の前に転がっている材料がすべて映画の材料であった。彼は「映画とは俺が製作するものが映画だ」と言うに違いない。世界的な名監督を失ったのは何とも残念である。


(柳 路夫)