安全地帯(360)
−市ヶ谷 一郎−
戯(たわむ)れに恋はすまじ
源頼朝に艶聞はことかかない。彼の父は義朝、母は熱田大宮司季範(すえのり)の娘で、父義朝が京都で保元の乱に勳功があり、母のおかげもあり、わずか12才で高位高官ではないが官位をもらい、上西門院統子に仕えた。ということは、京都で育ったものと思われる。しかし、翌、平治元(1159)年、平治の乱に平清盛との権力争いに父義朝に従い、敗れて逃亡中平家に捕らえられたが、清盛の義母池善尼のおかげで辛うじて刑死を免れ、伊豆韮山の蛭ガ小島に配流、20年間流人としての生活を送ったのである。その間の多感な青年時代の女性関係はまたの機会に。その上、祖父為義、父義朝も艶福家、当時は一夫多妻は男の器量、天皇を始め公家、侍る武家もそのような行為が普通で、自分の領地つまり縄張りに勢力拡張のため、めったやたら子供を作った。頼朝もそれが普通と思っていたらしい。
ところがどっこい、伊豆の韮山、北条(1q四方ぐらい)の小土豪、北条時政(平家の流人監視役)の娘政子に手を出したのが運のつき。これが頼朝のいや、源氏、北条氏の運命を左右しようとは。そして、曲折の末ゴールイン、鎌倉へ入府したのであったが、このご夫人は田舎育ち、京都の風習などもってのほかである。頼朝のチョコチョコやる浮気に大嫉妬(おおやきもち)がすさまじいのである。家来に命じ女の家をぶっこわす。出来た子供を徹底的に追っかけいじめる。家来が頼朝に命じられてかくまうのだが政子が恐ろしいので苦労する。それがまた、沢山出て来るのである。九州南端まで家来が連れて逃げ、薩摩の殿さまの祖になった島津忠久もその中の一人という風聞まであり、現在、鹿児島では信奉している人が多くいるらしい。
ご落胤では異色であり実話の人物を紹介しよう。これは、史書吾妻鏡や寺の文書にはっきりと出て来る人物で、あながち、悲運のご落胤であるが、その名は、鎌倉法印貞暁(じょうぎょう)という僧侶である。幼名はわからない。
文治2(1186)年2月16日、貞暁は頼朝の子のともに将軍となった政子の実子、頼家と実朝の間で、彼は、長門景遠の鎌倉浜の宅でひっそりと生まれた。生母は伊佐時長(のちに奥州征伐で勳功をたて、伊達氏の祖となる)の娘、幕府女官の大進の局(だいしんのつぼね)である。しかし、ことが政子に知られ、儀式は省略。政子の怒りで長門景遠の子景国がその子を抱いて彷徨し、鎌倉の裏里、深沢(現湘南モノレール沿線)に隠れた。建久2(1192)年正月には頼朝は内緒であろうが、食うに困らぬよう母大進局に伊勢のある所領を与えている。
貞暁は建久3(1193)年、7才になり、頼朝は数人の家臣に庇護を頼んだが断られ、やもう得ず景国が乳母夫(めのと・・乳母の夫)となって以後、政子の目を逃れあちこちの裏里を転々としたらしくとうとう京都に追いやられることになり、景国に連れられ由比ヶ浜より京都の仁和寺へ弟子僧となるため出て行った。その前夜、頼朝はひそかに彼の宿所を訪れ、わが子に太刀を与えたのである。
貞暁は幸い姻戚の法印隆暁のもとで修業に励み、師僧の跡を継ぎ法印に叙せられ、高野山に移り、奥の院を修復、頼朝の菩提を弔うため寂静院(じゃくしょういん)を建立した。また、その資金を幕府に求めたり、政子に呼ばれ鎌倉へも来たこともあったと文献記録がある。そのころには政子も許していたと思われる。
とにかく、僧侶として勉学に励み、かげに頼朝の後援もあり、立身出世は目覚ましいものであった。ところが、承久元(1219)年正月27日三代将軍実朝が鶴岡八幡で暗殺され、政子から貞暁に四代将軍の誘いの話が来た。彼女の貞暁に野心があるかとの偵察だったかもしれない。使者の前で即座に片目をえぐり、不具の将軍を持つことは関東の御家人は喜ばぬであろうと言って退け、政子はそれを聞いて落涙したという話が伝わっている。さすが幕府草創の源頼朝の血を感じる。そして、自分の持っていた所領を弟子に与え、1年後寛喜3(1231)2月22日46才で没した。なにか訳のある覚悟の死であったらしい。
(参考文献)
清和源氏の全家系 奥冨敬之著 鎌倉・室町人名辞典 安田元久著
吾妻鏡の謎 奥冨敬之著 全訳 吾妻鏡 新人物往来社
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