2012年(平成24年)6月1日号

No.540

銀座一丁目新聞

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追悼録(455)

桜田門外の変余聞

 

 安政7(1860)年3月3日は現在の暦でいえば3月24日彼岸過ぎである。水戸浪士17名、薩摩浪士1人の18名は、降りしきる春雪のなか、大老井伊 直弼の登城行列を襲撃し、桜田門外を鮮血に染めた。直弼の駕篭は稲田 重蔵が突きを入れ、薩摩浪士有村 次左衛門が首級を挙げた凄惨な大事件であった。稲田はその場で斬殺され、井伊の首を持って狂喜していた有村は、斬られて失神していた警護の侍が蘇生して後ろから斬りつけ、重傷を負わされ、近くの大名屋敷の前で自刃、首は井伊家にもどされた。当時は事件を恥とし隠密にした。江戸の井伊家菩提寺豪徳寺(世田谷)にある墓石には、命日を3月28日に延ばし、直弼急病を発し闘病中としてお家相続の手続きを済ませた後、死亡したことにした幕府の温情があったのである。実は、あの事件では、お家断絶は免れなかった。今でも彦根の記念館には、惨劇に使われた刀が展示されている。かつて杉並に住んでいた私も幼少のころ、つまり80数年前には親戚のお年寄りに、「偉い掃部(かもん)さまが殺されたこと」を話してくれた人がいたのを覚えている。よほどの大事件だったのだろう。

 鎌倉鶴岡八幡宮より海に向かって若宮大路が横須賀線のガードをくぐると下馬交差点がある。そこを左折、約500b左に坂東33箇所観音霊場の3番安養院、その前に上行寺(じょうぎょうじ)という癌封じで有名な寺院があり、そこに桜田門外で井伊大老を襲撃した水戸浪士広木 松之介有良の墓があるのを知る人は少ない。以前は門前に説明板があったが、今はない。

    

 広木 松之介は水戸藩評定所へ勤めた武士で、勅許を受けず日米通商条約を結び、安政の大獄を行い、特に水戸藩に強圧を加えていた大老井伊 直弼に我慢ができぬ血気にはやる尊王攘夷の武士らが、脱藩をして大老殺害を企てた同志のなかの一人である。襲撃後彼は追っ手の追及を逃れ越後、越中、越前・加賀等北陸を僧形になり逃避行をしていたが、最後に鎌倉に来て材木座の魚仲買商源七宅(現在曾孫が鮮魚商)にかくまわれたが、危険なため上行寺の住職通善上人にお願いして同寺に潜伏する。ところが、同志のある者は斬殺され、ある者は捕らえられ斬首、ある者は自害と、同志の情勢が風の便りに伝わり、もはやこれまでと2年後の文久2(1862)3月3日本堂東南の廊下で自害したのである。25才であった。現在、本堂左にひっそりと高さ2bほどの墓石が建っている。(水戸市見川町妙雲寺にもある)墓誌銘に『贈正五位広木松之介之墓 男爵上村彦之丞謹書』とある。追い詰められた2.26事件の烈士にも似て哀惜の念を感じる。余談として、同志であったが襲撃に参加しなかった後藤 権五郎輝という男が彼の身代わりか、広木の逃亡中に広木 松之介を名乗り自首して文久2年に獄死している。32才。

 水戸浪士の実行隊長関 鉄之介の襲撃合図と直弼の腰から大腿部貫通させたピストルは、当時横浜の貿易商であり政商であった中居屋 十兵衛の提供になるものらしい。彼は文政3(1820)年3月、群馬県吾妻郡嬬恋村三原(旧中居村)の出身、生家の黒岩家は大きな農家である。吾妻川に添う国道144号線の三原より右折し、(左折は軽井沢方面)万座温泉方面へ坂道を数百b上がって行く左手に『中居屋重兵衛生家』の標柱が建っている。養蚕農家特有の総2階で、2階はお蚕の飼育に使われていたのだろう。彼が生糸貿易に才能を発揮したのも判る気がする。現在の生家は、私も訪問したことがあるが、あの田舎からの立身出世はたいしたもの。20才で妻を捨て江戸へ出奔、江戸の伯母の書店へ奉公し,働きながら和漢の書ばかりでなく和蘭語も勉学し、日本橋に貿易商を出店し、後、横浜村に区画された本町4丁目を与えられた。大名屋敷にも出入りし押しも押されぬ横浜一の豪政商になった。 店舗、住まいは銅板葺きであかがね御殿と呼ばれた。安政2年の「砲薬新書」より火薬についての造詣を深め、上州・野州・信州・武州の生糸、草津白根火山の硫黄よりの火薬製造販売、会津の塗物、越後の米、海産物、薬草、材木など多岐にわたって交易をした。みな彼の勉学。精励の賜物であった。現在横浜市中区本町2丁目東京都民銀行横浜支店の脇に『中居屋重兵衛店跡』の碑が建っている。しかし、栄華もそこまで、幕府が生糸など五品に自由貿易を制限し、横浜の貿易商人弾圧をはかる。彼はそれに反抗、水戸浪士の黒幕となり、資金援助、武器提供をしたと思われる。しかし3年後の文久2(1862)年8月2日、貿易の禁令に背いたか、倒幕のための水戸浪士たちへの資金援助を感ずかれたか、事件の仕掛け人として幕府役人の嫌疑が深まるのを察知し、突如妻子を離縁し、謎の失踪を遂げた。ときに42才であった。房州へ逃げたとも言われるがその後の消息は判らないのである。誠にあっけない幕切れであった。10年ほど前の北大路 欣也主演の映画「動天」では重兵衛が幕府役人包囲の中、店の火薬に火を着け爆破しながら逃亡し、行方不明になるシーンで終わる。

 桜田門外の変より7年後、ついに明治維新が誕生する。

 なお、桜田門外の変を契機に元治元(1864)年筑波山で挙兵した武田 耕雲斎、藤田 小四郎(同志の中の梶山 敬介は故自民党梶山 静六代議士の祖先)たちの起こした天狗党の乱も、水戸藩内の派閥抗争、尊王攘夷派の決起につながって行く明治維新への辛く苦い胎動であった。


(市ヶ谷 一郎)