花ある風景(457)
並木 徹
ある中学校のささやかな同窓会
大連2中『トナカイ』の会(昭和18年3月卒業)に出た(5月27日・ホテル・ニューオータニ・イン東京)。出席者8名(東京3名、神奈川4名、千葉1名)年齢は86,7歳。いつも5月と11月に開いている。誰かが言った。「今日は海軍記念日だな」。「そうだな」と答える。世間はこの日が『海軍記念日』であるのを忘れている。知らない若者もいるであろう。私たちのクラスから3名が海軍兵学校、1名が海軍経理学校に行った。4人ともすでに亡くなった(陸軍士官学校には8名)。
配られた『近況報告』(となかい通信9号)に外間政一君は「何かとストレスの多い世情にあって『トナカイ』の存在はまたとない友情のかもしだす温かさに溢れ、いつも大きな元気を与えてくれた。この会との出会いはまことに大きな人生の幸せと思っている」と記す。今逗子に住んでおり、政治のだらしなさを嘆いていた。週2,3回ボランティアをかねて医療をしている医者の加藤繁次君も『日本の将来を命懸けで考える政治家がほしい』という。子曰く「学而時習之。不亦説乎。有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知而不チ。不亦君子乎」(論語の学而第一)。
瀬川浩二君は奥さんと孫娘を連れて昨年10月、3泊4日で大連に行って来た。『おじいさんが住んでいた大連をぜひ見たい』と言う孫娘の希望で訪問したという。同窓生の郭永沺君と食事をしてきたそうだ。郭君は第一高等学校、東大医学部在学中終戦となり、満州医大を卒業した秀才。大連医学研究所の所長を務めた。今は悠々自適している。大連を訪問するたびに同窓生が世話になっている。中国女性と再婚、大連に住む野中良雄君と瀬川君は会おうとしたが日程が合わず断念した。ところがそれから1ヶ月後,野中君は急逝する。瀬川君は旅順工大在学中敗戦となり、先輩の身代わりとなってソ連軍に技術者として留用され、ハバロフスクで発電所建設などに従事する。ソ連に抑留された日本軍将兵の悲惨な収容所生活を目撃する。その技術者留用生活は一編の小説になる。詩に曰く。「国破山河在。城春草木深。感時花濺涙。恨別鳥驚心。烽火三月。家書抵萬金。白頭搔更短。渾欲不勝簪」(杜甫の『春望』)。
頂いた『近況報告』は11ページ(うち2枚は訃報・行事・会計報告)。合計19人の近況が記載されている。これらは毎回、紺野浩一君(ワープロ・編集・印刷)と平原千之助君(ワープロ・会計)が担当した。今回で打ち止めになる。残念である。紺野君にはご面倒をかけた。感謝のほかない。年2回の会合はなお今後も続けられる。手元にある『となかい通信』第6号(平成21年6月15日発行)をみると、23ページもある。編集後記のほか満州日日新聞(昭和13年3月25日)に掲載された大連2中入学合格者名。平成18年1月31日現在の42名の名簿もある。なかなか貴重である。「となかい通信」が果たした役割が大きかったのを今更のように知った。
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