伊藤桂一著「かかる軍人ありき」(光人社NF文庫・1994年第3刷)の第1章「戦犯記」に次のようなことが書かれている。昭和21年の早春、中国軍の北京軍事法廷に参考人として呼び出されたのにかかわらず、木瀬祐太郎憲兵大佐が「自分が憲兵部の最高指揮者であったので部下のいかなる行為も私の責任である」と名乗り出た。裁判長は木瀬大佐の翻意を促したが大佐はその主張を変えなかった。結局、裁判での判決は死刑であった。
中国の戦犯裁判は北京、広東、上海、南京、漢口,徐州、太原,瀋陽、済南,台北等10ヶ所で行われ、603件(憲兵関係231件)872名(同じく342名)が裁かれた。ともすれば自分の責任を他になすりつけて罪を逃れようとする中にあって木瀬大佐の行動は稀有といってよい。
さらに獄中での木瀬大佐の厳正な起居振舞いが看守を驚かす。獄房の一方に端坐してその姿勢を崩さない。時々『軍人勅諭』をつぶやくだけであった。死を待つ人の態度とは到底思えない。この態度に木瀬擁護論が起こり、再審となる。それでも木瀬大佐は「部下は私の命令で行動しました。部下が許されない限り私の罪は消えることはありません。私への死罪の判決当然であります」と態度を変えない。木瀬大佐はふたたび服獄する。今度は裁判所側が木瀬大佐の行動を調査した。官公署の役人から商人まで木瀬大佐の人間性を称揚した。信義を守り、礼節を尽くし、廉直を忘れない人であった。ついに法廷は木瀬大佐を死刑から無期懲役に減刑して東京巣鴨拘置所で服罪するように命じた。
憲兵関係の戦犯者の判決は死刑96名(執行72名)無期36名,有期116名、無罪117名、不起訴その他2名となっている。「日本憲兵正史」(全国憲友会・昭和51年8月15日発行)によれば、中国戦犯は他の連合国に比べ戦犯者総数も少ない。惜しむらくは中国側の裁判は低級にして、不当過酷なものが多かったが、中には住民の感情対策上やむを得ずやったと思われるものもあり、連合各国に比すればやや寛大であったといえるであろうと総括している。このような軍人もいたことを国民は忘れてはなるまい。
(柳 路夫)
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