同期生・廣瀬秀雄君を偲ぶ会が5月8日開かれる。出席者は同期生16人のほか彼が社長・会長を務めた東洋証券の関係者等60名。私にとって彼の死は衝撃的であった。亡くなったのは3月19日、実家のある越後湯沢であった。その6日前の13日、月1回開く読者会のメンバー、後藤久記君、梶川和男と私らと廣瀬君とともに映画「戦火の馬」を東京・有楽町で見て、終わって東京会館で夕食を一緒したばかりであった。次回は4月20日、府中市天神町4丁目にあるカトリック府中墓地に眠る航空士官学校長、徳川好敏中将の墓参をして読書会をやろうと約束して別れた。それが最後になろうとは誰が知ろう。
私達陸士59期の同期生は3000名もいる。同じ兵科でも知らないものが少なくない。航空兵の彼とは戦後も接点はなかった。10数年前、本部代表幹事の江藤武俊君に頼まれ、幹事会で30余人の同期生に卓話をした。流行しているマンガと携帯小説を取り上げた。
感想をハガキで克明に書いてよこしたのが廣瀬君であった。それが縁で府中の居酒屋で5人の同期生たちと月1回読書会を開くことになった(もう一人は服部友康君)。廣瀬君は気配りのきく人であった。外国旅行に行った際には必ずお土産をくれた。モンゴルの人形が今,居間飾り箱の中に納まっている。しゃれっ気もあった。ある時、田中正明著「南京事件の総括」(小学館文庫)に挟んで次の漢詩を忍ばせた。
『題天寧花生亭』
太子慮手入落杯
将来兵子意気起
杯水原撫花生嵐
仰天空行夜雁啼
一夜幕可
だれにも読めなかった。次回の宿題と言うことになっていたのだが次の読書会には話題にもならず、そのままになってしまった。
4月20日午後4時過ぎ府中市天神町4-13-1にあるカトリック墓地を梶川、後藤と私の3人で訪れ46号南5-6にある徳川家の墓に花・セントリアを捧げた。後藤君の父親は徳川校長とは陸士同期生で共に工兵で親友であった。徳川さんは後で航空へ転科された。日本航空界の草分けの一人である。徳川さんは親友の同期生の息子・後藤久記が心配であったのであろう在校中、良く留守宅へ後藤君の様子を手紙で知らせたという。梶川君は船舶兵、私は歩兵、航空兵は後藤君と廣瀬君であった。私と梶川は徳川校長の薫陶を受けていないが敗戦後、59期生を卒業させるかどうかでもめたことがあった。昭和20年8月末、航空が、10月、地上兵科の59期生がそれぞれ卒業の予定であった。徳川さんだけが敗戦したドイツの士官候補生の処分を見ると卒業の有無で異なる。卒業させない方が敗戦後の日本再建のためになると主張された。そのため陸士関係では58期生以上が公職追放となり、発行部数2万部以上の新聞社には入社が禁止された。徳川校長のおかげで59期生は戦後役人にもなれ、新聞記者にもなれた。新聞記者の道に進んだ私は後藤君とは違って意味で徳川さんの墓に手を合わせた。また廣瀬君の分までお参りをした。
(柳 路夫)
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