安全地帯(356)
−市ヶ谷 一郎−
頼朝が怒った!
読売新聞夕刊のコラム(4月7日)に「ふわふわ」という題で「わぐり たかし氏」の静岡県袋井の玉子焼きのことを書かれていた。なかに「吾妻鏡」のことに触れられていたが、こちらの方はだいぶ使い方が違い、今も昔も変わらず人をコケにするのは変わらないので面白い。
鎌倉時代の史書「吾妻鏡」の元暦2(1185)年4月15日によれば、頼朝は源平合戦を勝利に終り、その功績による頼朝よりの推挙により朝廷より官位を伝えるという形を取らず、勝手に朝廷より直接官位を受けた幕府御家人を酷評している。つまり、権威の象徴、鎌倉幕府統領、頼朝を通じないで勝手に朝廷より官位をいただくことは、建制(規律にもとづいて編成すること)の保持のためには厳に戒めていたのである。新しい始めての武家政権であり、やることはだいぶ荒っぽいがやむを得ぬことだったのだろう。今も明治や昭和維新の「維新」という斬新な政党もあるようだが。
吾妻鏡に「功無くして多くもって衛府・所司等の官を拝命す。」「本国に下向することを停止(ちょうじ)せしめ、おのおの在京して陣直公役を勤仕すべし。(中略)もし違(たが)いて墨俣以東に下向せしめば、かつは、おのおの本領を改め召し、かつは、また斬罪に申し行はしむべし」と。つまり、ろくに手柄も立てぬのに官位を戴いている。おのれの領地に帰って来てはならない。京都朝廷での仕事を宿直で勤めよ。その上に、もし墨俣川(当時の関東、関西の境)以東の地を踏んだらおまえたちの領地没収、または首を斬るぞと、きつく言い渡したのである。源平合戦で勝利し、鎌倉や故郷へ錦を飾って凱旋するのと大違いである。
大人物頼朝も相当頭にきたのであろう。こんなに怒っているのは珍しい。以下個々の者に対する罵詈雑言(ばりぞうごん)を列挙するが、当時使っていた言葉も知ることができるが今は口語約とする。()内は出身
兵衛尉義廉 木曽義仲に仕えた時は頼朝の悪口を言い、拾ってもらって今度は無断で官位をもらう悪兵衛尉(あく、ひょうえのじょう)め。
佐籐 忠信 藤原 秀衡より申し受けたのに、分際を弁えず、いたちに劣る。(会津)(義経の忠臣)
渋谷 馬允 あっちに着いたり、こっちに着いたり、頸を斬られぬよう鍛冶屋と相談して頸に金具を作ってもらって用意しろ。(高座渋谷のち東京の渋谷)
後藤 基清 目はネズミ目、任官できたのは珍しい。(京都)(父義朝の部下)
梶原 友景 声はシワガレ,後ろの髪の格好は官位の刑部(ぎょうぶ)のガラでない。(鎌倉)
梶原 景高 人相が悪く、ろくでなし、任官は見苦しい。(鎌倉)
中村 時経 大ボラ吹きで、身分を考えず、いくさは負けるし、だらしないあわれなやつよ。(相模中村)
豊田 義幹 色白でボーとした顔、ただ働いているだけの者の任官はまれだ。(常陸石下)
平山 季重 顔がフワフワしているのに珍しい任官だ。(武蔵多摩平山)
宮内 丞舒国 隅田の渡河の時の臆病で悲鳴を挙げたやつ、任官見苦しいぞ。
小山 朝政 九州まで平家を追討し、京へ戻ってくるのが遅く、まるでのろまの馬が道草を食っているのと同じだ。(下野小山)
その他大勢いるが割愛する。頼朝のカッカ、カッカしているのが目に見えようだ。
「吾妻鏡」によれば、義経も御家人同様に再三の頼朝の注意にもかかわらず、勝手に後白河上皇から左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)という官位を受けた。彼も、のち、奥州平泉で敗死するまで、愛人静御前を含めて、徹底的に追討される様子が描かれている。
裏読みすれば頼朝が知っていたかどうかは別として、新生幕府に内紛を起こさせ、分断を企図するという深謀遠慮、恩師故奥富 敬之先生得意の名句『後白河法皇の黒い手』が早くも暗躍していたのではないか。
結果は義経及び佐籐 忠信以外は後に、本当に斬罪されたのはいなかったようで、本領へ帰っていったらしいのが救われる。頼朝も言いたい放題言ったので胸がおりたのだろう。そこへ行くと頼朝夫人政子のやきもちは徹底的でものすごいが、次の機会に譲ることにする。
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