毎日新聞で一緒に仕事をした奈良泰夫君が死んだ(3月28日・享年86歳)。葬儀は彼が最後に社長を務めた東日印刷の準社葬であった。通夜、告別式とも多数の人が参列した。私は告別式に参列、友人代表として弔辞を読む。告別式後、同期生・上野貞芳君、今村明君,福嶋久郎君らとともに奈良君の骨を拾う。弔辞の要旨をここに綴る。
「奈良君 靖国神社の染井吉野が昨日(3月31日)一輪の花を咲かせたよ。君が亡くなって三日後の花だよりだ。
君の表現を借りれば君とはお互いに傷をなめあったり、謀議を凝らしたりした仲ではなかった。切磋琢磨,丁々発止やりあった“君子の交わり”であった。三年ほど前から体調を崩したと聞き、気にはしていたのだが、このような形でお別れとは無情と言うほかない。思えば、君との付き合いは六十九年に及ぶ。大東亜戦争の末期(昭和18年4月)、第一線の指揮官になるため、埼玉県朝霞の振武台(陸軍予科士官学校)と神奈川県相模原の相武台(陸軍士官学校)で、厳しい教育と過酷な訓練に耐え、誇りを以て生きてきた。常に死を考えた同期生である。敗戦があと一,二月、遅ければ歩兵科の二人はともに靖国神社に祭られていただろう。
敗戦後はお互いに毎日新聞で、半生を過ごし、退任したのも一緒であった(昭和62年6月)。君は毎日新聞中部本社代表、俺が西部本社代表であった。毎日新聞の経営の苦しい時代であった。名古屋と福岡でお互いに業績を挙げようと努力した。ある時、役員会で俺が「正月部数はいつ決め,いつもより余計に何部印刷するかご存知ですか』と役員達に質問したところ、即座に答えたのは奈良君だけでした。西部本社では正月部数を月はじめに、いつもよりは増紙用を含めて五十万部ほどよけに印刷するのを慣行としていた。思いもかけず、奈良君の緻密な仕事ぶりを垣間見ることが出来た。毎日新聞退任二年後(昭和63年12月)、今度は越中島にある東日印刷とスポーツニホン新聞の、それぞれの社長に同時になった。スポニチの印刷を引き受けるのは東日印刷である。印刷代でもめる。残紙率の問題もあった。印刷のCTS化の際、どこの会社にするかでも激論した。お互いに『常に死を考えた同期生である。最後は落ち着くところに落ち着く』と腹をくくっていた節があった。おかげですべてうまく収まった。
君は東日印刷では大いに業績を挙げた。毎日新聞では君ほど印刷がわかる経営者はいない。お世辞ではなく、君ほど地位が上がれば上がるほど力を発揮した男はいなかったと俺は思っている。
今、君の遺影の前に立つと、本当にお世話になったとつくづく思う。スポニチが「日本アイスランド協会」を作った際には君は『独断と偏見の牧内が・・』と思いつつも手を貸してくれた。アイスランドのヴィグデス大統領がスポニチ本社訪問の際には即座に号外を発行して呉れた。また親善訪問団長としてアイスランドを訪れ緑化資金を提供した。挙げればきりがない。人間は死後「自己完結の旅」に出ると俺は信じている。印刷の勉強もいいがあとに残した初世夫人のことも考えてやれよ。俺もあと三十四年後にそちらに行く。もうしばらく待ってくれ。合掌」
(柳 路夫)
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