安全地帯(355)
−市ヶ谷 一郎−
昭和初期のテキヤさん
筆者は、大正末期、生まれも育ちも東京府下、西荻窪商店街の真っただ中に生まれた。ただ、前に500坪ばかりの原っぱ(広場とは言わない)があった。そこは高圧電線が通っていて下は家が建たなかったのである。昼はドンドン焼き(手車にお好み焼きを太鼓をたたいて子供を集めて売る)、飴細工(白いあったかい飴をつまんで、はさみで細工して売る)。キビ団子や(目の前で串団子に黄な粉を着ける)、紙芝居などの子供相手から、研ぎや、古着や、煮豆や、アサリ・シジミや、ラウや(ピーと鳴る笛蒸気でキセル掃除)、山伏風で野草をならべペラペラしゃべりながらの薬売り、羽織はかまで易者風、大きい方角の書いた図を広げ、もったいつけて説明、最後に暦(こよみ)を売る。私は毎日見ているからサクラ(買うふりをする仲間)も判っている。ときには見世物小屋、芝居小屋、サーカスなども出て呼び込みが面白い。夜は焼き鳥や、支那(中華とはいわなかった)そばやが定期的に出る。そこは、おじの家の地所なのでガキ大将のわたしの幼少のみぎりは、子分を引き連れデカイつらで君臨し、子供ながらにそのスジの人たちと仲良くなり、薫陶を受けた。
いつもお堅いお話ですが、きょうはぐっと肩の力を抜いてお耳を汚します。品性下劣、極めて低俗、高邁な新聞を汚し、主幹の牧 念人氏にご叱責を覚悟で幼少のみぎりの薫陶の一端をご披露します。出典は「フーテンの寅」語録や先輩の伝言、巷説に準拠し、言語明瞭、意味不明、訳の判らぬものばかり、お座興のタネに。
『○「わたくし、生まれも育ちも葛飾(かつしか)、柴又(しばまた)です。
帝釈天(たいしゃくてん)の水で産湯(うぶゆ)を使い、根っからの江戸っ子、姓は車、名は寅次郎
ひと呼んでフーテンの寅と発します。私、不思議なご縁を持ちまして、ネオン輝く花の都東京の空の下、生まれ故郷に草鞋を脱ぎ、由(ゆえ)えあって親分、一家を持ちません。
(小諸なる古城のほとり、藤村記念館の奥に寅さん記念館がありますよ)
○ 四谷・赤坂・麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、いきな、ねえちゃん立ちションベン。
○ 三(産)でさんざん苦労する、サンで死んだか三島のお千、お千ばかりが女じゃないよ、
○ 四角四面は豆腐やの娘、色は白くて水臭い。
○ やけのやんぱち、日焼けのなすび、色は黒くて喰いつきたいが、あたしゃ入れ歯で歯が立たぬ。
○ 結構けだらけ、猫、灰だらけ、お尻(ケツ)の周りは糞だらけ。
○ 色は黒いが味見やしゃんせ、味は大和(やまと)の吊るし柿。
○ 色が黒くて惚れ手がなけりゃ、山のカラスは後家(ごけ)ばかり。
○ 立てば芍薬(しゃくやく),坐れば牡丹、歩く姿は、百合の花 (ガスタンク)
○ たこはイボイボ、にわとりははたち、いもむしは19で嫁に行く
○ 鶴は千年、亀は万年、あなた百までわしゃ九十九まで、ともに白髪の生えるまで。三千世界におまえさんと添わなきゃシャバに出てきた甲斐がない。
○ 信州、信濃の新そばよりもあたしゃあなたのそばがいい。
○ 七つ長野の善光寺、八つ谷中の奥寺で、竹の柱に茅野の屋根、二人で出かけりゃいとやせぬ。
○ はなのパリかロンドンか、月が泣いたかほととぎす。
○ 焼けたおいなりさん鳥居(とりえ)がない。お墓の引っ越し、はかいかぬ。(はかどらぬこと)
しゃべっているテキヤさんはなんとか売ろうと真剣なのだから。子供たちには親切だし、苦労している人が多い。馬鹿にはできない。
くれぐれも、ときと場所を選んでください。老婆(ろうば)(爺(じ)?)心ながら。