安全地帯(350)
−市ヶ谷 一郎−
2.26事件余聞 壮烈河野大尉
年が明けた正月某日、ひざ療養のため、伊東温泉よりの帰りである。熱海の海岸国道と駅方向への交差点で信号待ちをしたところ、ふと、何の気なしに左に目をやると、一瞬白い標柱に二・二六の文字が書いてあるようだ。持ち前の好奇心から気になるので行きすぎてからUターンして、近くに駐車し近づいて見ると2.26事件の関係者の標柱であった。写真のように河野 寿大尉自決の地とあり、片側に熱海陸軍病院裏門跡、片側に豆相人車鉄道軽便道とある。ちなみに、明治29(1896)年ごろ人夫2〜3人が手押しで4〜6人を乗せるトロッコのような乗り物が線路上を小田原、熱海間(3.5時間所要)を。後、39年からはオモチャのような蒸気機関車(熱海駅前に展示)が車両を引いた。そのあとであろう。
それはともかく、早朝まで深々と降った雪がやんだ昭和11(1936)年2月26日、前日まで何回かの積雪があり帝都東京はまさに白一色であったことを当時10才だった筆者は鮮明に覚えている。登校したら珍しく受け持ちの先生が青い顔をしながら、「皆、今日は帰っていい」と。勉強なしを喜んで雪投げをしながら帰宅した。家へ着くと間もなく築地市場から帰ってきた父(当時鮮魚商を営んでいた)が、皇居周辺から赤坂方面に多くの軍隊が出動して、普通は着けぬ警備に着け剣(小銃に剣を着ける)で尋常でない。交通は遮断され、車は大まわりをして帰って来たとのこと。異常事態は子供ながらにも、都心でなにか容易ならない大きな事件が起こったことを感じた。それは、重臣多数が軍隊によって襲撃、殺害された2.26事件の勃発であった。なお、近所にあった教育総監渡辺 錠太郎大将宅が襲撃されたのは前述(2011.3.10号花ある風景に所載)した。
主として、近衛歩兵第三連隊50名、歩兵第一連隊400名、同三連隊900名の兵が非常呼集、完全軍装(重機関銃、軽機関銃、小銃、ピストル。実弾携行)で集められ安藤 輝三大尉、香田 清貞大尉、河野 寿大尉、野中 四郎大尉以下の将校が、天皇陛下の軍隊を指揮し、若干の民間人を含め、多くの政府重臣殺害にそれぞれの攻撃目標を定め出動したのである。
事件の動機、推移や影響について、歴史のひとこまとして重大事件であり、多くの記録や著述、伝言があり、私のような素人が軽々に説明や是非善悪の意見を書くのは控えたいし、関係の方々の遺霊に申し訳なく、出来る訳もない。
私が見た熱海の河野大尉自決の地についてのみ記すことにする。なぜ、ひとり東京から離れた熱海で自決したのか調べてみた。大尉は佐世保市生まれ、海軍少将の三男、熊本陸軍幼年学校より陸軍士官学校第40期生、当時、飛行12連隊より所沢陸軍飛行学校操縦科学生として派遣され28才独身、同志の同期生には銃殺刑になった滋賀県出身、陸軍少将の長男竹嶌 継雄中尉がいる。大尉は、重砲兵から転科した航空兵の重爆機乗りで、同志から紹介された下士官・民間人計7名を率い、前日、決行準備のため、湯河原温泉の老舗旅館伊藤屋に投宿。当時別館光風荘に宿泊中の牧野 伸顕(大久保 利通の次男)前内大臣の状況を偵察、翌日襲撃したのである。警備の警官と撃ち合いとなり、旅館は放火され焼失、警官一人が射殺された。大尉も警官の銃撃を受け重傷を負う。牧野氏は使用人、消防団や当時、居あわせた元麻生首相の母、吉田(麻生)和子さんたちの機転でからくも脱出して無事だった。ちなみに和子さんの父は吉田 茂元首相で牧野氏の女婿であった。彼女はつまり祖父のところで事件に遭遇したのだった。その他数人の負傷者が出た惨劇だった。
大尉は部下により近くの陸軍東京第一衛戍病院熱海分院に収容された。ほかの一同はそこで、三島から急行した憲兵により、逮捕された。そして、大尉は、差し入れの果物ナイフを使い、病院裏門手で3月5日自決、翌日死去。(藤井 非三四著の「二・二六 帝都兵乱」草志社、河野 司著「私の二・二六事件―弟の自決」河出書房新社ほかによる)
偶然、熱海の自決現場跡(写真参照)に遭遇したこと、また、かつて、日帰り入浴で湯河原の奥にある「こごめノ湯」へ行った際、前の鬱蒼とした木立の別荘地があった。そこが、牧野前内大臣襲撃の惨劇現場であって、再建された別館光風荘があり説明板もあったのを記憶していた。光風荘は、現在土・日・祝日、2.26(要1週間前に予約)(0465−63−2111内線232)に関係の品が展示されているそうだ。熱海の自決現場跡に遭遇したのも因縁だと思う。
驚天動地の大事件も76年の風雪を経て歴史のひとこまとなった。今、日本は何回目かの激動の時代に突入、混濁の世になっている。改めて事件関係で命を落とされた方々のご冥福を心よりお祈りし、二度とあのような悲劇が起らぬことを希う。