2012年(平成24年)1月10日号

No.526

銀座一丁目新聞

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追悼録(441)

桜井省三中将を偲ぶ

 

 大東亜戦争時、ビルマでの戦いで名将と言われた桜井省三中将の墓が多磨墓地にある。1月早々、桜井中将の墓に詣でる。表門近く、大曲がり通りに面した4区1種5側7番にあった。桜井家の墓は高さ170メートル質素なただずまいであった。墓碑銘には「蓮台院徳翁省悟大居士」昭和60年7月7日享年96歳とある。

 桜井中将は陸士23期、陸大31期恩賜である。大東亜戦争緒戦で第33師団長としてビルマに進攻して英軍を撃破駆逐した。昭和17年8月エナンジョンに戦勝記念碑を建てたが同時に英印軍の『無名戦士の碑』も建て戦没した敵兵の霊を弔った。戦後捕虜となった桜井中将が英軍から優遇された理由の一つである。日露戦争で、乃木希助大将が旅順でロシア軍を破った際、敵味方両方を祭った慰霊碑を建てている。桜井中将にも乃木将軍に似て己を持するに厳しいところがったという。

 桜井中将は昭和19年5月、ビルマ西南地区防衛のために編成された第28軍司令官として再びビルマに赴いた。ここではビルマ方面軍が敗れたため敵中で孤立した。だが桜井中将は見事な統率ぶりを発揮される。「アラカン山系を利用して持久防御を行うという縦深防御案」と「海岸正面の要点に所用の兵力を配備し、予備隊をあまり持たない決戦配備案」が出されたが、軍司令官は前者を取りさらに、アラカン山系を越えるアン―ミンプ道路及びペグー山系を横断するパウンデートングー道の日本の道路作ること、ベグー山系内の状況を調査しておくことを付言された。総延長150キロに及ぶこの軍用道路は昭和20年初めに何とか完成した。結果的にはこの道路は作戦の末期には退却路及び補給路として,遅滞作戦に役立つ。その先見の明には参謀一同頭を下げた。ビルマ西南方面に分散していた隷下部隊をベグー山脈に集結させることになった。たとえば第54師団の場合である。アラカン山野で英印軍と戦っている時,後方の状況が一変、ラングーンは陥落し早くベグー山系内に集結せよと命令を受けても各方面に分散して戦っている部隊をまとめるのは容易なことではなく2ヶ月もかかってしまった。雨季の真っ最中、桜井軍司令官は辛抱強く待たれた。当然軍司令部はシッタン河を越えてシャン州に脱出しているものと54師団将兵は思い込んでいた。将兵たちはこの軍司令官のためなら喜んでいつでも死ねると思ったという。完全に掌握した後、少なからずの犠牲者を出しながらも敵中突破作戦を敢行、シッタン河を越え方面軍主力の元に復帰した。

 敗戦1年後復員をビルまで待ちながら桜井中将が詠った歌。「なきがらはビルマの山に草むすもみたまはかえれ靖国の杜」

 戦後、桜井中将は「戦争で人生のすべてを使い果たしたこれからは清貧に甘んじて余生を送る」といって一切の公職、名誉職に就かず極めて質素な生活を送られた。


(柳 路夫)