2012年(平成24年)1月10日号

No.526

銀座一丁目新聞

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花ある風景(442)

 

並木 徹

 

 徳川好敏中将の教え芳しい
 

 陸士59期、60期を教えた陸軍航空士官学校長徳川好敏中将の等身大の胸像が東京・代々木公園の一角にある。製作者市橋敏雄氏。設立は昭和39年4月17日。亡くなられたのが丁度1年前である。碑文に曰く
『誠実,謹厳、航空に生涯を捧げたこの人が明治43年(1910年)12月19日、
この地代々木練兵場でアンリー・ファルマン機を操縦し我が国の初飛行を行い
飛行時間 4分
非行距離 3000メートル
飛行高度 70メートル
の記録を創造して日本の空に人間飛翔の歴史をつくった』

 日本航空の草分けの徳川中将が埼玉県所沢にある陸軍航空士官学校の校長として赴任してこられたのは昭和19年3月末であった。59期生の航空士官候補生16000名が航空決戦の要望にこたえてその年の3月17日に繰り上げ卒業、3月29日修武台に入校したばかりであった。同期生たちは校門の前で黒塗りのパッカードで目の前を徐行する徳川校長を出迎えた。校長の訓示は1、実行力の養成2、知行の陶冶3、学業と心技の一致であった。後藤久記君は3について徳川中将の経験からにじみ出た実感のこもった言葉と感じたという。後藤君の父親久次郎さんは徳川さんと陸士同期の15期生で兵科も工兵で親しかったという。徳川校長は親友の息子のやることを、多少の悪戯でも温かく見守られたようである。

 米軍の本土空襲がはげしくなるにつれ飛行訓練が難しくなった。昭和20年4月、操縦兵科の候補生たちが満州での飛行訓練を余儀なくされた。航空整備・通信を除く1108名が満州の各地の飛行場に分散した。鎮東、鎮西(21中隊)、杏樹(22中隊)温春、東京城(23中隊)平安鎮(24中隊)海浪、海林(25中隊)海浪(28中隊)である。

 徳川中将は6月上旬、早くも満州各飛行訓練地を視察された。

 徳川校長は「特攻の力をもって戦勢を挽回するのは国家の要請である。精鋭なる特攻として一日も早く戦力となれ」と説かれた。徳川校長は常々『教育の真髄は情けにあり。教育の指導には情を以て而もその間厳ならざるべからず』と口にしておられた。すでに沖縄には米軍が上陸、苦戦を強いられ、マリアナ,硫黄島を基地とする米軍機の中小都市への空襲が激化、敗色が濃い時であれば徳川校長の言葉も納得いこう。陸軍では第一次菊水特別攻撃隊から第5次攻撃隊まで1900機が特攻として散華した。このため7月9日に技量によって速成班と一般班に分かれた。ユングマンから特攻機となり得る1式双高等練習機や99式高等練習機の操縦に拍車がかかった。同期生たちは死を覚悟した。8月9日のソ連軍の満州侵攻、15日敗戦・復員となる。

 戦後、徳川校長の「学業と心技の一致」を実行した同期生がいる。満州・鎮東で操縦を学び高練の初単独飛行直前でソ連軍の侵攻で空の夢を断たれた佐藤茂雄君である。弁護士となるも空の夢捨てきれず、昭和42年自家飛行機操縦の資格を取り目的を果たす。この40年間の飛行回数1千700回を超える。赤十字飛行隊の副隊長も務め数々のミッションに参加する。「飛行機は決して妥協してくれない。従って安全に空を楽しむには、愚直までに基本を守り、常に勉強を心がける律義さが必要である」と佐藤君は言う(雑誌『偕行』1月号「戦後を生きる」)。昭和38年4月17日79歳でこの世を去った徳川校長はこの言葉を天国で喜んで聞かれたことであろう。