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安全地帯(346)
−信濃 太郎−
原爆『小倉回避』の真相
毎日新聞で一緒に仕事をした松尾礼次郎君が「原爆小倉回避の真相」(販売店PR誌・昨年8月号に掲載)の一文を送ってくれた。昭和20年8月9日原爆が落とされた長崎の初めの目標は小倉で、これまではその変更の理由は天候と言うことであった。松尾君はそうではなくて関門上空に2機のB29迎撃戦闘機「屠龍」がいたため目標が長崎に変えられたというのである。
戦後アメリカ戦略爆撃隊の追跡班が来日して『8月9日早朝、下関小月基地のB29迎撃戦闘機「屠龍」2機が関門上空を哨戒飛行した事実』があるかどうかを調査した。これは原爆を搭載、小倉に向かったB29が「屠龍」をレーダーでキャッチし「体当たりの可能性あり,投下目標を長崎に変更」とテニアン基地に連絡したからである。調査の結果、その通りであった。高知へ復員していたK中尉(陸士57期・戦後食品酒類販売会社経営・3年前に死去)が「部下の戦闘機と小月基地を飛び立ち関門上空3000メートルを哨戒中であった」と証言した。
実はB29が「屠龍」を恐れる理由があった。昭和19年8月20日(原文8月19日とある)B29が北九州市折尾上空で「屠龍」(野辺重夫軍曹操縦・高木伝蔵伍長同乗)に体当たりで撃墜されている。本土空襲でB29を体当たりで撃墜した第一号であった。野辺機が体当たりすると同機と被害機の破片が後続のB29機の尾翼に激突,後続機のパイロットは当時の大統領トルーマンの甥で、テニアン基地の航空中尉であった。落下傘で脱出したが地上で日本軍に包囲されて戦死した。アメリカでも大きく報道され、戦略爆撃隊でも「屠龍」を警戒せよの指示がでた。これが原爆投下に小倉に向かうパイロットに影響があったものと思われる。なお野辺機に撃墜されたB29の写真が別冊1億人の昭和史『特別攻撃隊』(毎日新聞)に掲載されている。
屠龍は2式複座戦闘機、双発で最高540q/h、記号キ45、設計川崎、B29の夜間迎撃の陸軍の主力戦闘機であった。
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