2012年(平成24年)1月1日号

No.525

銀座一丁目新聞

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追悼録(440)

源氏悲劇の追悼録

 

 鎌倉在住35年になる。多少鎌倉史ついては興味もあり、定年後、中世史の碩学、日本医大教授の故奥富 孝之先生に師事して鎌倉の歴史書「吾妻鏡」(北条氏の編纂で偏りもある)を教えていただいた。講義は学会でも有名なユニークな発想で進むのが大変面白かった。ただ、だいぶ経つので忘却したものが多いが、余り知られていない心に残った悲しいことを幾つか記してみたい。今日はそのひとつをご紹介する。

◆源 頼朝の弟 希義(まれよし)のこと
 某日、源 希義墓参のため高知空港に降り立った。市内へ行く空港バスは途中、介良(けら)という部落一か所のみ停まる。そこで、降りたのは私一人だけだった。介良には、源 頼朝の弟、希義の墓所がある。そこは高知市郊外の淋しいところであった。案内書を頼りに田畑の山麓を20分ほど歩くと川岸に案内の石塔があり、鬱蒼とした木立の奥に鬼気迫るような岩の塚があり、上に1メートル程の無縫塔が建っている。鎌倉からやっと着いた今でも遠い源 希義の墓であった。 合掌。

 希義は源 義朝の五男として頼朝とは同母の五才下の弟であり、母は、由緒正しい熱田(熱田神宮)大宮司の娘である。七、八才ごろまでは京都にいたらしいが平治の乱で義朝が敗死し、彼は平氏の捕虜となり身柄を土佐、介良荘に配流(はいる)される。永暦元(1160)年3月11日である。幼名は判っていないが、烏帽子親なく自分で元服したらしい。土佐冠者(かじゃ)とか介良冠者といわれ21年間を過ごした。8才から2児をもうけた29才までである。土佐夜須荘(やすのしょう)の領主、夜須 行宗と同盟を結んで源家再興を画策していたらしい。ちなみに、あの辺は頼朝の流された伊豆蛭ガ小島と同じ、伊豆走湯山権現の別当寺密厳院の所領であった。そして、ここは同寺の灯油船が航行していたようだ。伊豆と土佐の関係がなにか匂ってくる。頼朝(伊豆)と希義(土佐)は連絡があったのではないか。

 そして、治承4(1180)8月17日、雌伏20年、兄頼朝は、遥か伊豆で決起する。しかし、皮肉にも希義の耳に入るより早く、土佐蓮池荘の領主蓮池 家綱に平家は希義追討を命じたのである。介良城(館)は包囲され、持仏堂へ入り経2巻を読んだ後、従容として腹かっ切って死んだ。一説には、頼朝決起の知らせを受け、同盟の夜須 行宗へ向かうところを捕らえられ、切腹を許されたのを感謝しつつ従容と死を選んだとある。さすが、武勇の誉れ高い源 義朝の御曹司、武人としての面目躍如である。

 墓前で思うのは、義朝は東奔西走活躍したのであちこちに多くの子をつくっている。しかし同腹で毛並みの抜群に良いのは嫡男の頼朝と希義であった。有名な弟の範頼や義経とは出自(しゅつじ)が格段に違う。遠く、遠く離れて20年、お互い離ればなれになった運命の皮肉にもめげず、源家再興を願いあった若き兄弟。兄はついに成功するも、さぞ希義は、兄と共に闘いたかったろう。さぞ無念であったろう。ついに会うことのできなかった希義の悲運に歴史の悲哀を感じ、一掬の涙を禁じ得ない。

 救出に向かった夜須行宗は希義敗死の報を聞き、船で鎌倉へ報告のため脱出した。11月20日には頼朝が復仇のため行宗の案内で源 有綱に追討を命じ出立させた。かくて、蓮池は滅ぼされ領地は行宗が授かることになる。

 今、鶴岡八幡宮の東方徒歩約15分に頼朝の墓がある。最近、その東傍らに遥か高知の介良の方々が希義の墓の土を運び、納めてくださったのである。悲運に翻弄された兄弟がやっと会うことができたのである。頼朝は源平合戦の折り、義経が奥州から応援に来たのを喜び、手を取り涙を流したという感激居士(こじ)だ。実の弟希義ならどうだったろう。墓が動いたかも?

 ぜひ、ご一見ください。

 墓参への途次、道を尋ねたご婦人(介良で途中お会いしたのはこの方だけという淋しいところ)が、帰途にわざわざ自転車で追いかけて来られ、希義関連の郷土史書と、手ぬぐいをくださり感謝感激、人道未だ地に堕(お)ちず、介良の方々本当に有り難うございました。頼朝に代わって御礼申し上げます。

(鎌倉唱歌の一節)
歴史は長き七百年(今は八百年)
    興亡すべて夢に似て
    英雄墓はこけむしぬ


(市ヶ谷一郎)