2011年(平成23年)12月20日号

No.524

銀座一丁目新聞

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追悼録(439)

毎日新聞の先輩・人見絹枝さんを偲ぶ

 

 『銀座俳句道場』で知り合った松村竹雄さんから同人雑誌「文芸広場」12月号が送られてきた。その中に藤平咲雄さんが「詩と人生 人見絹枝」と題して一文を書いている。人見さんは毎日新聞大阪本社の運動部に在籍したことがあり、オリンッピク選手としても有名である。この中で人見さんがセンバツ高校野球開会式のプラカードを掲げての入場行進や勝利校の校歌吹奏、校旗掲揚の発案者であるのをはじめて知った(昭和4年6回大会から)。第6回大会には16校が出場、神港商業が優勝している。これらの新機軸は昭和3年アムステルダム開かれたオリンッピク大会に参加した人見絹枝嬢(毎日新聞社員・大正15年入社)が身をもって体得した国歌と日ノ丸から発案したものであるという(別冊一億人の昭和史『センバツ野球50年』毎日新聞社)。アムステルダム五輪では彼女は800mで銀メダルを獲得している。優勝したドイツのリナ・ラトケ選手とはわずか3メートル差であった。タイムは2分17秒6の世界新記録であった。はじめ人見選手は自信がある100mでメダルを取るつもりであったが意外にも予選で落選してしまった。このままでは日本に帰れないと、一度も経験したことのない800mに挑戦、見事2位に入選した。この時、人見さんは21歳。ゴールに飛び込むとともに失神して倒れてしまった。この気力と頑張りが今の日本の女性選手に見られないのは残念である。

 人見さんは社内でも活躍している。昭和2年大毎東日が新日本八景を読者選定で行った際、大毎が『関西73景勝争奪リレー」(各チーム9選手)を行った(昭和2年8月4日)。社会部チームと社会部外チームとが競争する趣向であった。その社会部外チームの選手として人見絹枝さんは健在ぶりを発揮した。

 藤平咲雄さんの一文には人見さんの短歌が紹介されている。大正15年9月22日の大阪毎日新聞10面に掲載された短歌(9首)である。そのうちの3首を書きだす。

『曇りては雨を催す北欧のみ空も同じ秋の初めは』
『さわがしき秋の一日もすぎゆけばそぞろしのびぬ国の事ども』
『昨日よりすこしすすみし記録にもよろこびにみつ今の我はも』(註・大正15年8月29日スウェーデンで開かれた第2回国際女子競技大会で走り幅跳び優勝)

 女子選手として大活躍した人見絹枝さんであったが昭和6年8月2日肺炎でこの世を去った。享年24歳であった。

 大毎はオリンピック選手が好きである。私は昭和38年8月東京社会部から大阪社会部に転勤した時、大阪の運動部には葉室鉄夫さんがいた。葉室さんは1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック200m平泳ぎで金メダルを獲得している。三段跳びの南部忠平さんもいた。運動部長も務められた。南部さんは1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピック の三段跳びでは金メダルをとられたた。また、走幅跳でも銅メダルを獲得された。これもトップの経営感覚を表すものと言えよう。


(柳 路夫)