2011年(平成23年)12月20日号

No.524

銀座一丁目新聞

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花ある風景(440)

 

並木 徹

 

 演劇『吉良きらきら』を見る
 

 義士の日、劇団「カッサイ」のお芝居『吉良きらきら』を見る(12月14日東京・清澄白河深川江戸資料館小ホール)。友人荒木盛雄君の誘いで霜田昭治君と3人で満席の中に納まる。忠臣蔵(事件から50年たって公演された浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』から名づけられた」)では悪役の吉良上野介(江原眞ニ郎)がこのお芝居では明君として登場する。誘いがなければこのようなお芝居は見る機会がなかった。持つべきは友達である。

 幕開けは元禄15年12月15日本所松坂の吉良邸に討ち入った赤穂浪士が本懐を遂げたところからはじまる。芝居の進行役は吉良家腰元絹(大川婦久美)が兼ねる。分かりやすくて親切である。吉良上野介は上杉家三姫富子(梅原妙美)を迎え、終生の誓いをする。舞台いっぱいに「きらきら音頭」の踊りが繰り広げられる。上野介をたたえる。この踊りがうまい。観ていて快い。水害に備えて『黄金堤』を設け,新田を開発して民を飢えから守る等善政をほどこす。領地(愛知県西尾市・旧吉良町)では名君と語られるのに、「なぜ恨まれなければならなかったのか」というのが芝居のテーマである。風評被害に対する抗議の芝居でもある。浅野内匠頭(5万石)が17歳の時上野介は勅使を迎える御馳走役の礼儀作法を懇切丁寧に教える(天和3年2月)。内匠頭はこれを詳しく書きとめる。18年後また内匠頭は勅使の御馳走役を命じられる。今回は上野介が多忙であった。教える時間が少なかったため内匠頭は前回のメモを見てことを進めて行く。これに上野介はことごとく文句をつける。屏風の絵模様、出す茶碗などにダメを出す。さらに内匠頭が将軍家拝領の茶碗をプレゼントするも突き返す始末。そこで耐えかねた内匠頭が江戸城松の廊下で刃傷に及ぶ次第(元禄14年3月14日)。

 舞台を見ていて、私にはもてなしとは迎える人の心であると思った。その時の季節、世相、流行、いわゆるTPOに相応しいものであればよいのであって、18年も前のしきたりに固執する必要はないのではないかと感じた。上野介の気持ちもそれに近いものであっただろうと思う。舞台ではあの世に行った二人が問答をかわす。内匠頭は「負けたくなかったからだ」という。有職故実に加えて経験、年の功に内匠頭は到底、上野介にかなうまい。だが武士の意地がそうさせたとでもいうのであろうか。事件後、目付の役人に内匠頭は「私の遺恨があり一己の宿意を以て刃傷に及んだ」と申し開きをしている。時に内匠頭35歳であった。自立したと言え、いまだ不惑の年に達していなかったのが残念であったというべきであろう。上野介にとっては内匠頭が40歳の分別ある齢を越えておればと言う悔いは残るであろう。歴史には“もし“(IF)は禁句である。

「主を慕う きらきら音頭の 義士祭り」紫微
「義士の日や 吉良の里人 主を慕う」
「名君も 信なく討る 義士祭り」