読書の傾向をみると歴史、人物に関するものが多い。いざという時にその人がどのような判断を下したり決心したりしたかに興味があるからであろう。書棚を整理していたら佐治敬三さんの「へんこつ なんこつ」(日本経済新聞刊・1994年月18日第1刷)が出てきた。一度読んだ本だが、開高健、山口瞳、柳原良平等がサントリーの宣伝に大活躍をした話などは覚えているもののその他はほとんど覚えていない。人間の記憶の頼りなさはあきれるばかりである。
住んでいる府中の競馬場近くにあるサントリー武蔵野工場はなじみが深い。瀟洒な建物で良く目立つ。昨今は工場見学に訪れる人が少なくない。ここが東京進出の拠点とばかり思い込んでいた。佐治さんの本によれば、昭和33年6月に竣工式を挙げた川崎市の多摩川工場がはじめの拠点で、大阪生まれの大阪育ちの寿屋の関東攻略の橋頭保となったとある。武蔵野工場は多摩川工場の後に建てられたものであるのをこの本で知った。東京は洋酒の市場として喉から手が出るほど魅力があったという。竣工式に出席した前尾繁三郎大蔵大臣は『洋酒屋が10億円もかけて工場を作って大丈夫かね」と心配されたそうである。その後の寿屋の洋酒の成長はその心配をふき飛ばすのに十分であった。
東京・六本木のサントリーホールの音響効果の良いこととパイプオルガンは有名である。オープンは昭和61年10月12日。設計は佐治さんの親友の安井建築事務所会長であった佐野正一さん。ホールの壁に使われているのは、ウイスキーの塾生に使われている樽と同じくオ−ク材である。私も何度もここのホール演奏会を聴いた。パイプオルガンはオーストリアのリーガー社製、佐治さんはここの工場を見学、社長と3人の息子がつくりだす名人芸を見ている。バイプの数が6千本を越えるという。『オルガンのないホールは泡のないビールのようなものだ』だそうだ。
佐治さんにはスポニチ時代、女性サポータ「マドンナ100」の有志と一緒に御馳走になり、シャンソンまで聞かされた。有能にして洒脱な紳士という印象を受けた。佐治さんは平成11年11月3日死去された。享年80歳であった。
(柳 路夫)
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