安全地帯(341)
−信濃 太郎−
映画「一命」が問いかけるもの
原作・滝口康彦、監督・三池崇史の映画「一命」を遅まきながら見る(11月10日・東京有楽町・ビカデリー3)。感想を言えば題名を「面目」か「恥」とした方が映画の意図が良くわかったと思う。カタログ(800円)にいう。「武士として自分の信じる正しい生き方を、命懸けて貫こうとする武士たち。その生きざまは貧困、格差、政治、カネ、権力と言った今となんら変わらない問題を抱えて生きている我々に究極の選択を突きつける。『一体何が善で何が悪なのか』貴方なら、この問いをどう受け止めるか」
私ならもののふの「面目」「恥」を基準にして考える。孟子は「恥悪の心は義の初めなり」と言った。義とは人の道である。カーライルは「恥はすべての徳、善き風儀並びに道徳の土壌である」といった(新渡戸稲造著・矢内原忠雄訳「武士道」岩波文庫より)。
徳川時代、仕官先もなく生活に困窮した浪人たちが大名屋敷を訪れ仕官や金子を求めて『狂言切腹』したとは知らなかった。「武士は食わねど高ようじ」と言う言葉もある。やはり「恒産なければ恒心なし」か。主家がお家つぶしにあい、碌を失った主人公津雲半四郎(市川海老蔵)は傘貼りを余儀なくされる。娘美穂(満島ひかり)の夫・千々岩求女(瑛太)にしても寺の一角で寺小屋を始め糊口をしのぐ有様である。
生活保護を受ける者が205万人と戦後最高を記録した昨今、格差は一段とひどくなった。さらには増税が待っている今の世の中である。その上、武士道なるものを知らない輩が多いご時世。何が善で悪かと問うても分からず悪に染まるものがつぎからつぎへ出てくる。
千々岩求女は病気の妻を抱え、そのうえ生まれたばかりの金吾が高熱をだす。その治療費に3両かかると聞かされて井伊家で「狂言切腹」を試みる。家老斉藤勘解由(役所広司)に見透かされ竹光で切腹される羽目になる。3人の立会人も早く介錯せずなぶり殺しの状況となる。
すべて状況を知った津雲半四郎は死を覚悟して井伊家へ『切腹』の場所の提供を申し入れる。求女の雪辱を果たさないでは武士の面目が立たない。半四郎は井伊家の庭で家老の斉藤ら井伊家の家来たちにただす。「恥を承知で武士が妻子のために金子を所望したその心底を、誰か哀れと思わなかったのか・・・」
さらに半四郎は立ち会った3人の切りとった髷をその場に投げ捨てた。『赤備えの武勇を誇る御当家(井伊家を指す)に置いても、武士の面目とはしょせん人目を飾るだけのものと見受けまするな』という。立ち会いの3人の武士もそれぞれの自邸で割腹して果てる。
半四郎は求女の竹光で大勢の井伊家の武士たちと戦う。面目を全うし、恥をそそぐことができれば命と引き換えることも辞さなかった武士がかっては日本にいたのだ。
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