2011年(平成23年)11月10日号

No.520

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茶説

戦略とは何か

 

 牧念人 悠々

 毎日新聞の社会部記者時代に様々な事件の取材をした。その際、事件の筋をどうとらえるのか、つまり事件がどのように発展するのか見極めるのに苦労した。疑獄事件の場合は時代の動き・背景などを知らねばならなかった。それが報道合戦の勝敗を決めた。これが国家戦略、作戦戦略ともなればもっと緻密にして適切な情報収集と判断力が求められるであろう。

 その意味でこのほど読んだ同期生で自衛隊の陸幕副長・西部方面総監を務めた村松栄一君の『戦略遍路』は面白かった。

 たとえばベトナム戦争の時の話である。昭和47年5月、世界画報にベトナム戦下の南のサイゴンと北のハノイの写真が掲載されていた。これをベトナム戦開始のころの写真と比較すると、サイゴンモハノイも戦争が進むにつれ別の街のように豊かになっている。自動車が増え、服装が華美になり、夜にはネオンまで輝いている。日本が経験した大東亜戦下の国民生活とは全く逆現象であった。経済企画庁で南北ベトナムの経済状況を調べると、双方とも米ソから多額な民間経済援助を受けており、その増加率は日本の経済成長率を凌駕している。戦争の人口への影響をアタッシェから帰ってきた一佐に聞くと「ベトナムの夫婦は飢餓、伝染病での幼児死亡を考えて1ダースぐらい子供を産むが、戦争で薬品・食糧の援助が増え、死亡率は激減した。しかし、惰性で子供を産み続けているので人口は爆発的に増えている」とのことであった。

 世界画報の写真から戦争は間もなく米軍の撤退で幕引きになるのではとの情報を得たという(サイゴン陥落はそれから3年後の1975年4月)。数枚の写真からベトナム戦争の終結を読みとったのは見事と言うほかない。

 ちなみに当時、日本人にベトナム戦争への関心を持たせるきっかけを作ったのは毎日新聞の連載記事『泥と炎のインドシナ』(1965年1月4日から38回連載)であった。

 昭和54年2月の中国とベトナム戦争の時も村松君の見通しがあたった。この時期、ベトナム(親ソ連)は親中国のカンボジアに侵攻していた。中国の国家主席ケ小平が「ベトナムは勝手な行動をしており、教訓を与える必要がある」と発言した。防衛庁の参事官会議後の懇談会で話題になった。大勢は中国の侵攻を否定した。村松君は「ケ発言は確かにゲリラ戦の大家グエンザップの指揮するベトナム軍を考えると、泥沼にはまる危険を冒すことになり、また親ソのベトナムと事を構えれば北と南の二正面作戦を覚悟しなければならないであろう.しかし、侵攻目的を教訓的打撃と限定すれば深追いの必要はなく、二正面作戦の心配はソ連にとっても同じである」としてこれまでの中国ウオチングしてきた成果を披露する。「ケ小平の本音は国内問題にある。文化大革命に幕を引き、開放路線を推進するにあるのではないか。これはケ小平が朝鮮戦争で第一線の戦火の中に立ち、身を以て確立した信念と思われる。この実現にはすでに拘束しながら2年間も放置している江青以下4人組の裁判をやらなければならないが、そのためには軍閥の棟梁達の掌握を必要とする。ケ小平が手っ取り早く軍閥を掌握するには外征を起こし、これに勝利することである。ベトナム国境には朝鮮戦争以来のケの刎頚の友・楊徳志画司令官でおり,ベトナム軍の主力はカンボジヤに出征中という利点がある。必要性と可能性から必ずベトナム侵攻は行われる。面子を重んずる中国首脳が軽々しく実行もしないことを口にするはずがない」と発言した。中越戦争は2月17日始まった。防衛庁内は長期化論が主流を占めていた。3月6日、防衛研修所の学生の講義に出かけていた村松君は学生からの中越戦争の見通しを聞かれて『早ければ今日だ」と答える。その根拠はその日の朝刊に掲載された中国発表の写真であった。ハノイとハイフォンとの街道の中間点ランソン進出と大量の銃砲を捕獲した写真であった。「これは教訓滝打撃の成功と同時に撤退のシグナルでもある」と説明した。この夜、中国はベトナムからの撤退を発表した。

 村松君は言う。「情報資料は巷間に満ち満ちているがこれを情報に転換できるかは当事者の心の持ち方と事象に対する知識の深さによる」。スパイは情報の90%以上を新聞等の公開の資料から得るという。道端に小判がたくさん落ちているのに人々は拾いもせず通りすぎて行くだけである。私もその一人であった。