友人の荒木盛雄君が出光美術館で開かれていた『大雅・蕪村・玉堂・仙崖展」(10月23日まで)の主な出品内容をFAXで送ってくれた。霜田昭治君と一緒に見に行ったという。私も行く予定にしていたが残念ながら見逃してしまった。送られてきたFAXの内容が面白い。
例えば第1章笑いの古典―瓢箪ころころ、鯰くねくね 行脚僧画賛仙崖(お影でたすかる南無酒や如来) 軽舟策蹇(策繭)図玉堂(策・杖突く、蹇・あしなえ)。
第U章無邪気な笑い―大雅のおおらかさ 山邨千馬図大雅(馬、馬、馬、馬市)蜀桟道図大雅(霞樵)竹里館図大雅(王維)布袋童子図大雅(本名契此 唐の人 霞樵 27歳の作)秋社之図屏風 六曲一双大雅(絖ぬめ 光沢ある絹)(絖本墨画淡彩)。
池大雅(1723−1776)は与謝撫村(1716−1783)とともに江戸中期,京都で文人画では双璧と呼ばれた絵師である。両人の競作『十便十宜詩』は二人の持ち味を生かした傑作と言われる。各詩に一図おのの10枚合計20枚の画作である。十便詩は大雅画、十宜詩は撫村がそれぞれ受け持った。
第V章 知的な嗤い―撫村の余韻 筏師画賛蕪村(いかだしのみのやあらしの花衣) 山水図屏風六曲一双蕪村(絖本墨画淡彩 48歳の作)
蕪村と言えば「菜の花や月は東に日は西に」「稲づまや浪もてゆえる秋津しま」など自然や宇宙を大きく捉えた作者像が浮かびがちだが、「身にしむや亡妻の櫛を閨に踏」と歌った一方で、「老が恋忘れんとすればしぐれかな」とも詠む。蕪村65歳のころである。俳人は繊細にして磊落、多情にして多感なのである。
若い頃、想像を絶する険峻な山々がそそりたつ中国人の描いた山水画を観て、内心では実在しない白髪三千丈の類に違いないと思っていた。 2002年、陸士同期の俳人荒木盛雄君(紫微)の誘いで東京都日中友好協会の中国ツアーに参加したのを皮切りに何度も中国の山岳地帯を訪れるようになった。 そして「桂林の漓江下り」では私の不明を恥じる事になった。 雨に煙る紛れもない中国山水画の世界が20キロにわたる船旅に現実のものとなったのである。
霧晴るる奇峯のこのこ現れり (紫微)
林立す山なす仙境秋時雨 (紫微)
禅僧・仙香i1750-1837)の描く洒脱な禅画は何度観ても飽きさせない。我が家のカレンダーも仙高ナある。
私が蕪村(1716-1784)と初めて接したのは小学校5年生の頃、担任の山本先生が歌人前田夕暮のお弟子さんで、小学生には俳句からはじめるのがよかろうと一年間授業に句作を取り入れた時だった。
鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな(蕪村)
そのまま絵になるではないか! 後年蕪村が文人画家であることを知って益々好きになった。
余談になるが、神田神保町にあった東洋幼稚園では謡曲を私たち園児に教えていた。昭和7〜8年頃の話である。
優雅な時代であった。
大雅(1723-1776)玉堂(1745-1820)も同時代の画家である。
会場には中国の故事や名所を題材とした絵画や屏風絵が存在感をもって観るものに迫ってくる。だが描かれた険峻な山々は、私の狭い体験では実在のものとは似て非なるものであった。この高名な四人の画家は中国には行っていないと思う。 中国人の描いた山水画を元に思い思いに想像を膨らまして描いた謂わば彼岸の山水世界である。中国人の絵は此岸の世界だ。
この展覧会の多くの作品が絖(ぬめ)という絹地を使っていることを学んだ。 天正年間(1573〜1592)に中国から京都西陣に伝来、日本でも織られたとある。 生糸を用いて繻子織(しゅすおり)にして精練した絹織物で、生地が薄く、滑らかで光沢がある。きっと高価なものであったろう。 恐らく絵を依頼に来る裕福な人たちが提供したのではないか。仙高ヘ絵を依頼に来る者が後を絶たないので狂歌を一首詠んだ。
「うらめしや わがかくれ家は雪隠か 来る人ごとに 紙おいてゆく」