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私の父は、大正10(1921)年、徴兵(ちょうへい)検査で、甲種合格、近衛(このえ)歩兵第一連隊(以下近歩1と略)第一中隊に入隊した。近衛歩兵連隊は日本陸軍の天皇親衛隊であり所在地も皇居の内堀内にある。もちろん、宮中に兵器を携行するのだから、身体強健のほか家庭環境、思想など厳正な調査を合格したことに加え、そのトップ中隊になったことに誇りを持っていた。
その父が語るところによると、在任中二つの大事件に遭遇している。
ひとつは父の現役21歳ごろである。大正12年9月1日午前11時58分44秒、東京南南西102キロの相模湾を震源地とする烈震、関東大震災が発生した。湾岸には海底、地上を問わず大陥没、大隆起により3~10mの津波が押し寄せ流域ではダブルパンチの大災害が発生した。まさに本年3.11北日本大震災が帝都直近で起こったのである。皇居・帝都を守護する近歩1の精鋭は折悪しく、千葉県の習志野演習場で野営演習の真っ最中であった。地震発生直後、ただちに連隊長は,禁闕(きんけつ)守護(しゅご)のため皇居内にある連隊に帰投する決心を堅め、演習場に散らばる各隊に非常呼集をかけ、急きょ装具を整え、隊伍を組んで連隊へ向かった。経験のある人は判るが長期の演習の装具はふだんと違い重い。多数の死者、家屋倒壊、大火災が発生し、交通機関は途絶し、日暮れとともに真っ赤に染まる東京にむかっての千葉街道を避難民や瓦礫に阻まれながら、夢中の連続駆け足、連隊に着いたのは翌朝だったろう。さぞ、緊張し、たいへんだったのだろうが、いつも父はこの必死の駆け足を自慢していた。
もうひとつの大事件は二重橋爆弾事件である。これは、大正13(1924)年1月5日午後7時15分警邏(けいら)中の日比谷署の巡査が二重橋付近にいた男を不審尋問したところ、突然爆弾を投げつけ(不発)、二重橋へ突進した。二重橋は、近衛兵の歩哨が立っていたが、これを発見、大声で「呼集(こしゅう)!」と怒鳴りながら衛兵所へ知らせるとともに、その侵入を阻止しようとした。衛兵も爆弾2発を投げられたが、これも不発、巡査と共に格闘の末、取り押さえた。犯人は、朝鮮独立運動家の金 某(40)で、当時の帝国議会にも投擲(とうてき)の計画があった。彼は裁判の結果無期から恩赦で懲役20年になったが、昭和3(1928)年2月20日獄死した。血の気の多い父は偶然この時、予備役で連隊に呼ばれ、数カ月の教育を受けていたが、その時、ご守衛に当たらなかったことを悔しがっていた。
戦後、往時の連隊旗手の甲谷様、小林様などと親交を続け、兵隊さんたちの方のお世話を引き受けていた。連隊は、靖国神社の大鳥居の前の田安(たやす)門を入った今の日本武道館のあたりにあった。連隊の人たちは昔の呼び名の「招魂社(しょうこんしゃ)」と言って靖国神社を氏神様と同じように、こよなく敬愛していた。また、正月元日未明の連隊全員の非常呼集は、必ず隊伍を整え靖国神社へ参拝するのが恒例であった。勿論、父は除隊後も参拝を欠かさなかったと思う。私も物心(ものごころ)が着いてから毎年神社のお祭りのたびに連れて行かれ、飯田橋駅近くのそばやで、ふだんは食べられぬかつ丼を食べさせてくれるのが、楽しみだった。
父の愛した招魂社、靖国神社の正面の大鳥居は大正10年に創建、老朽の結果昭和18年木曽のご料材を用いて再建されたが、これも老朽化し、三代目の恒久的な堅牢な、大鳥居を建設しようと、父たち近歩1会が発議した。近歩2会・全国軍人恩給連盟・遺族会・郷(ごう)友会その他関係団体の賛同を得、広く国民的事業として計画が推進され、当時日本最高・最大の高さ35m、笠木の長さ34.1m、柱の直径2.5m、総重量100t、素材は厚さ12mmの対候性の鋼板(日本鋼管製)を用い、耐震、対候性は風速80m、震度7まで耐久可能、耐用年数1,200年であった。建設のため、父は生きがいを持って奔走した。そして、遂に昭和49年10月7日に竣工した。
しかし、運命は、皮肉であった。その時、父は、既に手遅れの胃がんに侵されていて入院中であった。診断した同期の小金井の医師会長の広野恵三君に手遅れを宣告されていた。同期生の厚い手当と、長男である私の妻の看護だけを一途に信頼し、他の人を寄せ付けることはなかった。竣工(しゅんこう)の時は、病床にあり、竣工式に大鳥居を見ることはできなかった。そして、翌50年1月29日未明に他界した。73歳。残念であった。
ただ、再度の入院の際、私の運転で新橋の慈恵医大病院へ入院の途次、宮総代をしていた先祖代々の杉並の氏神様に車中よりお参りし、ついで靖国神社へ。始めてみる竣工に尽力した大鳥居の傍らに車を着け、介添えしながらやっと歩いて天高く聳える夢にまで見た大鳥居を眺め、撫でながら「立派になったなあ」。これがあんなに愛したお宮と父との今生(こんじょう)の別れであった。覚悟はしていたろう父の心中を察し胸が詰まる。
父の葬儀には、近歩1会の方が多数ご会葬くださり、当時の連隊旗手の甲谷様よりはありがたい弔辞までいただいた。棺に納まる父の胸には「近歩1会」と染め抜いたタオルをかけてあげた。盛大な葬儀であった。
父は最後まで近衛歩兵第一連隊兵士の誇りと愛情と情熱を持って、颯爽と旅立っていった。
昭和50年春、九段会館で大鳥居奉納式が盛大に行われ、私は父の遺影を持って参列した。
ああ!「親孝行したいときには親はなし」
(市ヶ谷一郎)
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