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平成の宰相について感あり
牧念人 悠々
新しい民主党の代表に野田佳彦財務相(54)が選ばれた。第95代首相となる。松下政経塾1期生、千葉県議2期、衆議院議員5期である。それにしても日本の宰相の器が小さくなった。時代が求めるのか、時代がそうさせるのか、民主党の菅直人前首相については論外である。本人は退陣の挨拶で「後世の歴史が判断してくれる」と述べているが、後世の歴史をまつまでもなく、すでに「落第」である。
宰相の器に必要なのはまずリーダーシップである。次に決断である。非常時に適切な判断を下せる人物である。私が名宰相と揚げる吉田茂(在職期間、昭和21年5月22日―昭和22年5月24日・昭和23年10月19日―昭和24年2月16日・昭和24年2月16日―昭和27年10月30日・昭和27年10月30日―昭和28年5月21日・昭和28年5月21日―昭和29年12月10日)と石橋湛山(在職期間、昭和31年12月23日―昭和32年2月25日)について述べてみたい。
吉田が初めて総理になったのは67歳の時であった。五たび内閣を組織し、通算7年間にわたり政治を取り仕切った。国論が全面講和か単独講和かでもめている時、講和条約に調印し、安全保障条約は自分単独で調印した。総理として一人で責任を負う気概を持っていた。吉田は大衆政治家とは肌が合わなかった。おそらく菅直人は最も嫌うタイプであったろう。人見知りする性格で特定の人としか付き合わなかった。気に入った人物とはとことん付き合った。イギリスのチェンバレン首相との交友はその端的な例である。外交官として恵まれたコースを順調に進んだとはいえない。それでも外務次官を勤め、外相就任も軍部にリベラル派として忌避される。大学は東大の政治学科を出ている。若いとき漢籍に親しむ。この漢籍によって「人間と人間との交渉術」を学んだと言っている。吉田茂のバックボーンは意外にもここにあるのかもしれない。
石橋湛山が総理になったのは72歳であった。総理に選ばれたのは1956年(昭和31年)12月14日に開かれた自由民主党大会であった。第1回答結果は岸信介223票、石橋湛山151票、石井光次郎137票で過半数を超える候補者がなかった。決選投票に持ち込まれ2・3位の連合で石橋258票、岸251票、無効1票という僅差であった。リベラル・デモクラシーの思想家・石橋湛山の政治手腕が期待されたのだが、不幸にも老人性急性肺炎を患い、1957年2月22日「国会に出席できないのは政治家としての信念に反する」と辞意を表明して翌23日総辞職した。わずか2ヶ月の短命であった。後を外相として入閣していた岸伸介が継いだ。石橋の良さは信念を貫くことである。第一次吉田内閣で蔵相として入閣するや学者・評論家・世論が揚げて戦後インフレを恐れ緊縮財政を求めたのに、積極的財政論を展開した。敗戦のために生産設備は壊滅的な打撃を受け、失業者も増大した。このようなときに生産にお金をつぎ込み失業者を救済するものであれば、「赤字財政も健全財政」であり「通価増発」もインフレではないと、ケインズの機能的財政論を論じて一歩も譲らなかった。この政策のお蔭で戦後日本の復旧は深い痛手も負わず意外と早く立ち直れた。隠れた石橋の功績である。自由民主党の新総裁になった時、石橋湛山は「五つの誓い」を揚げた。1,国会運営の正常化、2,政界・官界の綱紀粛正、3,雇用と生産の増加、4,福疾呼価の建設、5,世界平和の確率であった。それも病で挫折した。その潔い退陣を後継首相岸信介は「淡泊で執着性がない」と表現。国民はその退陣を惜しんだ。吉田茂、石橋湛山の二人に共通して言えるのは二人とも「世界に通用した人物」であったということである。民主党の新しい首相は歴史から多くのことを学ぶべきであろう。
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