2011年(平成23年)9月1日号

No.513

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追悼録(428)

部矢敏三さんの「遺歌集」出る


 歌人で、和歌山県花園村の村長であった部矢敏三さんが亡くなって1年7ヶ月がたつ(平成22年1月16日死去、享年80歳)。その『遺歌集』が出版された(藍書房・8月28日刊)。編者は次女の部矢祥子さん。題は『山峡 やまかい』。亡くなった部矢さん自身第一歌集『山峡の賦』(1996年)のあと第ニ歌集を出す準備をしており、出版社も第一歌集と同じ『藍書房』と決めていた。二人の女性編集者の行き届いた丁寧な本作りが気に入ったのであろう。本の体裁は46版上製白の表紙にねむの花を配する。1ページ目に村長3期目、平成7年10月の部矢さんの遺影、次に「花ねむに星はひと粒づつ灯る」の色紙・・・編者の人柄をしのばせる控えめな落ち着いた追悼の歌集となっている。

 部矢さんとは村主催の劇団ふるさときゃらばんのミュージカルを花園村で一緒に見たり、私が主宰する「マスコミ塾」で「村が良くならねければ日本がだめになる」と熱弁をふるわれたり懐かしい思い出が少なくない。

 歌は438首、俳句も24首納められている。私の心に響いたものを書く。
 「峡の空は鳥も飛べなきまで凍てて劫初の如き朝来ていし」
 「そらいろの煙天までのぼらせ甚兵衛窯は良き炭を生む」
 「青葉木菟、ひぐらし、河鹿、独り住み 我がふるさとは泣き虫ばかり」
 「朝焼けに溶け入るばかりの身をかがめ老婆ひたすら大根を蒔く」
 「余命尽して山に生きんとする我に柚子の実ほどの輝きはあれ」
 「昨夜また子連れ狸が書垣越えて薯掘り手伝いくれしと笑う」
 「身軽なる生死抱えてこの朝も一羽の目白枝移りする」

 部矢さんの珠玉のような歌つぎからつぎへと続く。自然を大きく捉え、そこで働き、動く人間、動物を描く。時には真面目に優しく、時にはユーモラスに・・・歌にはその人の人柄がそのまま出る。祥子さんはその性格を『何事も完璧で率直』と、部矢夫人は「責任感が強く曲がったことが嫌いで、けして人を恨まなかった」と述べている。部矢さんの父親は俳句をたしなみ俳号を持つ。部矢さんも10歳のころから俳句に親しみ「遊波』と号した。「ホトトギス」「天狼」「火串」「紀伊山脈」「金剛」などに投句した。若き日の部矢さんの俳句を高浜虚子は「この少年こそは末恐ろしい」と評したという。40代になって自分の思いが17文字の俳句では詠じきれないと短歌へ転向した。「颯々と風霏々と雪奥高野」「梅咲いて掌に載るほどの村一つ」「銀河濃し大塔村を袈裟がけに」「山姥のあませし火なり曼珠沙華」俳句も歌同様自然を大きく捉えている。部矢さんの思いは俳句の器の中では収まらなかった。常に溢れるばかりであったのだろう。「暁の鵙の裂へ帛奥高野」の句を詠むと部矢さんの心の叫びは俳句から短歌飛翔したように思える。私だったら俳句も短歌もやる。歌に飛翔したのは部矢さんが完璧主義者だったからであろう。

 部矢さんは昭和4年8月28日生まれ、私も8月生まれだが私より4歳も若い。なぜ死に急いだのか。惜しまれてならない。合掌。


(柳 路夫)