2011年(平成23年)9月1日号

No.513

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花ある風景(429)

 

並木 徹

 

 お芝居「父と暮らせば」

 

 土砂降りの雨の中こまつ座の「父と暮らせば」を見る(8月19日・東京・新宿・紀伊国屋サザンシアター)。客席は満員であった。福島第一原発の事故で「放射線」「被爆」の文字が新聞紙上で踊っているだけにこのお芝居はひしひしと強く胸に迫ってくるものがある。

 「父と暮らせば」を見るのは何度目であろうか。常に新しい発見があり、秋吉美津江(23)の「うちがしあわせになるというわけにはゆかんのです」の言葉にはいつも泣かされる。原爆で生き残った人たちの共通の気持ちかもしれない。昭和23年に美津子が23歳なら私と同じ年である。軍人への志が挫折したとはいえその悩みは比べようにもならない。「そんな自分を責めなくてもよいですよ」と客席から言いたくなる。美津子を早く嫁がせたがっている父親竹造(45)が最後に言う。「にんげんのかなしかったこと、たのしかったこと、それをつたえるんがおまいの仕事じゃろうが、そいがおまいに分からんようなら、・・・ほかのだれかをかわりにだしてくれいや」。ここに亡くなった井上ひさしの言いたかったことが秘められている。昭和20年8月6日広島上空580メートルには太陽が二つもできた火の玉に地上のものは人間も鳥も虫も魚も建物も石灯籠も一舜のうちにとけてしまった。原爆の悲惨さを伝え、語り継ぐ大切さを訴えたかったのだと思う。だから井上さんは「記憶せよ,抗議せよ、そして、生き延びよ」と主張された。

 その竹造の気持ちがわかったからこそ美津子が幕の最後に「おとったん、ありがとありました」と頭を下げる。

 最後に俳人、寺井谷子さんの句を掲げる。
 「水母のような灯が車窓を過ぎヒロシマ忌」