2011年(平成23年)8月20日号

No.513

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(427)

鎮魂・靖国の御霊安らかに


 敗戦記念日に靖国神社に参拝する。30度を超える暑さにも関わらず参拝客は列をなしていた。にぎやかであった。「奇兵隊」を作った高杉晋作が祭られているというに内閣発足時に「奇兵隊内閣」と名づけた菅直人首相ら閣僚は一人も参拝しなかった。国のために命を捨てた人々への鎮魂なくてどうして政治が出来るというのか。菅民主党内閣による大震災の復旧が遅れ、万事が後手後手に回っているのはこの“敬神”のなさによると断言する。

 8月の拝殿・社頭の昭和天皇の御製(昭和57年)
 「八月(はずき)なる嵐はやみて夏の夜の空に望月のかがやきにけり」

 昭和天皇が御製を作られた昭和57年8月の日本の出来事を概観すると、△「建設省、約300万人のマンション居住者の平均像を調査。2100万円で購入し専有面積72・5平方メートルに平均3・4人が住んでいた」△「雇用開発センターの調査によると、定年後も安心と言う人が33%、生活が不安と言う人が41・6%」△「埼玉県大宮市のデパートに1匹5万円にオオクワガタムシが登場、昆虫の狂乱高値に批判の声上がる」△「大型台風10号が本州中部を横断、東海道富士川鉄橋の一部が流出し、中央自動車道では33台の車がガケ9連れのため埋没死者・行方不明80人」(昭和家庭史年表・家庭総合研究会編・川出書房新社)今から29年前の出来事である。民草の衣食住の生活はそう変わってはいない。昭和天皇は台風10号による民草の身の上を御心配されてのお歌と拝察する。
 昭和天皇は敗戦の8月15日の終戦の詔勅で「宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」、また「惟フニ 今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ 固ヨリ尋常ニアラス 爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ 時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ萬世ノ為ニ 大平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ」と諭された。さらに「 若シ夫レ 情ノ激スル所 濫ニ事端ヲ滋クシ 或ハ同胞排儕 互ニ時局ヲ亂リ 為ニ 大道ヲ誤リ 信義ヲ世界ニ失フカ如キハ 朕最モ之ヲ戒ム 宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」と国民が今後向かうべき方向を示された。この精神は今でも立派に生きている。

 8月の拝殿社頭掲示の『遺書』は海軍軍属(学徒)立川絹江命。昭和20年8月23日 原子爆弾のため本籍地にて戦傷死。佐賀県杵島郡橘村出身、19歳。

 8月9日長崎で動員先の海軍関係の工場で原爆のため負傷、自宅で療養中戦傷死したのであろう。私と同じ年である。大連2中の同級生小川三郎君も長崎医専に在学中、長崎で原爆に遭いながらも原爆患者の治療に従事、死んでいる。

 私は昭和20年8月15日、陸士59期生の士官候補生として富士山麓で野営演習中であった。終戦の詔勅はここで同期生とともに聞いた。復員したのは8月31日。奇しくも私の20歳の誕生日であった。軍人への志は挫折し人生は大きく変わった。まさに人生のターニングポイントであった。戦後私は食うためにマスコミの世界に入った。終生の仕事となった。一緒に入社した仲間は今年5月で私を残して全員あの世へ行った・・・


(柳 路夫)