2011年(平成23年)8月10日号

No.512

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茶説

戦後66年目の敗戦記念日

 

牧念人 悠々

 江成常夫さんの写真展「昭和のかたち」を見る(7月28日・東京写真美術館)。これまで大東亜戦争の各玉砕地、満州、広島、長崎などを訪ねて撮ってきた写真を「昭和かたち」として集大成したもの。彼は「戦争の不条理さ」を追及、戦いに倒れた兵士、犠牲となった民間人の“鬼哭”を描く。展示された作品は112点。

 入り口正面に「アリゾナ号」から浮かび上がる油の文様の写真が飾られる。アメリカ人はこの油の玉を「アリゾナ号」が戦死者に向かって流す“黒い涙”と呼んだという(2005年5月撮影)。海底に沈む「アリゾナ号」には今なお1102人の遺骨が眠る。相和16年12月7日、日本海軍の機動艦隊の艦載機はオアフ島真北230カイリ地点から発進、真珠湾の米艦隊を攻撃「アリゾナ号」以下10隻を撃沈した。日本側は20機の損失、55人が戦死した。

 真っ赤な大きな花弁の花の写真がある(2007年1月撮影)火焔樹の花である。場所はガダルカナル島。飛行場の争奪戦で日本軍は陸軍1万3000人、海軍3800人が戦死した。「餓島」と言われ、ほとんどの兵士が飢えで亡くなった。軍神若林東一大尉(陸士52期)はここで「後に続くものを信ずる」と戦死した(昭和18年1月14日)。「元旦や糧なき春の勝ち戦」の句を残す。「花咲けど鬼哭啾々ガダルカナル」(悠々)。

 ピアク島でのざらしにされてきた日本兵の遺骨の写真があった(2007年7月撮影)。この島で戦死した日本軍将兵は1万2000人、収拾帰還した遺骨は850柱に過ぎない。ニューギニアの西北方にあるピアク島に日本軍は3ヶ所の飛行場を造成した。不沈空母の役割を果たそうとしたのだが、中部太平洋の戦況の悪化からピアク島への陸軍部隊の増派が難しくなり孤立してしまった。昭和19年5月米軍はピアク島へ上陸した.日本軍は良く戦ったが7月2日、歩兵222連隊長葛目直幸大佐(陸士25期)は軍旗を奉焼して自決、海軍の第28根拠地隊司令官千田貞敏少将(海兵40期)も8月25日、飛行場近くの洞穴で自決した。「洞穴で見つかった日本兵の遺骨」の写真もある(2005年5月撮影。レイテ島)。説明に「線香を手向け合掌士向き合う。汗がピントグラスを濡らし頭骨が泣いていた」とある。この日参観者少なく落ち着いて拝観できた。

 ペリリュー島の地下豪と慰霊碑の写真。この島を守備したのは中川州男大佐(陸士30期)が指揮する歩兵第2連隊を島嶼作戦の目的に砲兵、工兵、戦車等の部隊も有する強力な部隊に変身された。昭和19年9月15日米軍48000人がぺリリュ―島とその南13キロのアンガウル島を攻撃してきた。あらかじめ日本軍は島の全住民をより安全なパラオ島に移住,避難させた。世界戦史のその例を見ない凄酸苛烈な戦闘が展開され、「2,3日で落として見せる」と米軍が豪語したが島が落ちたのは2ヶ月後であった。11月24日中川大佐は「サクラ、サクラ」の電文を発信して自決した。一粒の米もない日が続き、部下が出撃を進言しても中川連隊長は「軍人は最後まで戦うのが務めだ。百姓がクワを持つのも兵が銃を握るのもそれが務めであり最後まで務めははたさんならんのは,同じだ。務めを果たすときは、だれでも鬼になる。まして戦いじゃけん。鬼にばらんでできるものじゃなか」と言ったという。

 ペリリュー神社境内に米海軍ニミッツ司令官の日本軍の奮闘を称える記念碑がある。その碑に「諸国からこの島を訪れる旅人よ 帰り伝えよ この島を守り 全滅し果てた日本将兵がいかに祖国を愛し いかに勇敢に戦ったかを」と刻まれている。見る人によって「昭和のかたち」も変わってくる。大東亜戦争の戦没者は240万人を数える。この人々の犠牲の上に今日の日本の繁栄がある。

 最後に印象に残った被爆したマリアの木像の写真(2004年7月撮影)を挙げる。「爆心地から500メートル。倒壊した浦上天主堂跡から奇跡的に見つかった。眼球は吹き飛び顔面が熱線で焼けている」と説明にある。人間が原爆にやられたと同じようにショックを受けた。許すまじ原爆をと、願う。

「マリア像生き返らせよ原爆忌」(悠々)。