2011年(平成23年)7月20日号

No.510

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花ある風景(425)

 

並木 徹

 

画家ワーグマンの世界を覗く

 
 手元の一枚の絵ハガキがある。「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース」1861年(文久元年)10月12日号に掲載された「東禅寺事件の現場のスケッチ写真である。チャールズ・ワーグマンは1857年(安政4年)『イラスレッド・ロンドン・ニュース』の特派員記者兼挿絵画家として広東にアロー号事件取材のために来訪、1861年に長崎(4月25日)を経て江戸(7月4日)までイギリス駐日公使オールコックに同行して足を延ばす。

 文久元年7月5日イギリス公使館となっていた高輪東禅寺が水戸藩士14名の襲撃を受ける。一等書記官のローレンス・オリファンは日本刀を振り回す二人の水戸藩士と乗馬用の鞭で応戦する。長崎領事のジュージョ・モリソンは襖の陰に隠れている。二人とも負傷する。ワーグマンは縁の下に隠れ事件の一部始終を取材、記事と挿絵を横浜から発信した。時に29歳であった。このころ攘夷浪士の外人殺傷事件が相次いだ。1860年ハリの秘書兼通訳のヘンリー・ヒュースケンが攘夷派の薩摩藩士に殺害され、1862年に御殿山の英公使館が焼き討ちにあっている。

 ワーグマン来日150周年特別展があるというので30度を超える猛暑を押して見た(7月15日・神奈川県立歴史美術館)。ワーグマンは日本に30年滞在、小沢カネと結婚する。彼が描いたスケッチは日本・横浜を知る上でも貴重な資料である。『横浜の街頭での羽子板遊び』『食事中の日本人の一団』等がある。1862年から雑誌「ジャパン・パンチ」を創刊する。横浜の居留地内の人々の娯楽のためで、数々のスポーツやレクリェーションなどが取り上げられている。国内の政治状況を揶揄する等の紙面は好評を博す。表紙は有名な鷲鼻のワーグマンらしき侍姿の絵である。居留地には英字新聞「ジャパン・ヘラルド』(イギリス人ハンサードが創刊)、フォト・マガジン「ザ・ファ・イースト」(スコットランド人のジョン・レディ・ブラックが発刊)、風刺新聞「トバエ」(ビゴーが発行)などもあった。日本の女性も描いている。妻のカネの絵もある。女性像を見る限り観察力も鋭く。背景も丁寧に描かれている。ともかく好奇心旺盛で「剣術の稽古をする日本の武士たち」(1864年8月6日)「大阪の相撲」(1868年2月1日)まで描いている。

 ワーグマンは1891年(明治24年)2月8日死去する。59歳であった。横浜外国人墓地に眠る。彼の絵は弟子たちに伝わる。第一回のポンチ祭りは1953年(昭和33年)に開かれた。「人生は短しされど芸術は長し」