2011年(平成23年)7月10日号

No.509

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茶説

東日本大震災の最後の砦

 

牧念人 悠々

 君塚栄冶自衛隊東北方面総監(陸将・防大20期・58歳)の話を聞く(7月4日・日本記者クラブ)。産経新聞を除いて新聞はあまり自衛隊の支援活動を報道してこなかったので君塚陸将の記者会見に出席した。この話の中で私が一番印象に残ったのは「自衛隊が最後の砦」であったということである。通信、燃料、移動手段に至るまで自己完結の唯一の組織であったという指摘である。東北地方各地の駐屯地や基地が、ほかの行政機関に対する支援拠点の役割を果たした。備蓄したガソリン・燃料をパトカー、消防車、自治体に分けた。その量はドラム缶6000本に達した。給水3万2985トン、給食、10ケ所、471万5453食、入浴、21ヶ所97万293人に及んだ。ここで忘れていけないのは自衛隊を除いた公共機関が『常に最悪の事態に備える』心構えが欠如している点だ。自衛隊でも被害を出している。家族が被災した隊員数374人、死亡者344人、負傷者5人、安否不明者12人に上る。三陸沖地震は99%起きるとみて関係県との防災訓練を実施してきた。『常在戦場』で必要な緊急物資を蓄えてきた。10万人動員を指示されても応じることができた。このようの心構えが県,市町村、警察、消防にあればもう少し迅速な救援対策がとれたであろう。戦後66年平和に慣れた日本人は戦うことを忘れて逃げることしか考えていない。今回の大震災は地震より津波の被害が大きく、その被害も広域で甚大であった。地方自治体の機能の喪失という事態も加わりさらに原発事故も重なった。よけに組織のあり方とその能力が鋭く問われた。それに十分に答えたのは日ごろから国民からも政治からも冷遇されてきた自衛隊であった。その自衛隊がどのような実績を残したのか、人命救助、1万9286人、遺体収容、9500人(死者1万5511人の61%にあたる)医療支援、2万3370人(7月1日現在)に及ぶ。日米共同の支援救援作戦もうまくいった。真っ先に駆けつけたのは米軍であった。普天間にいる海兵隊、原子力空母「ロナルド・レーガン」が東北に派遣された。出動した航空機140機,艦艇15隻その規模2万人である。その中でのヒットは仙台空港の復旧作業であった。米軍は楽しげに滑走路上の泥の排出をやってのけた。日ごろ必要ないと思われたものが有事に立派に活躍する。日本人はこのことを忘れてはなるまい。

 質問に答えて君塚陸将は「防衛大臣と毎日やりとりをし、報告や指示を受けた。菅総理も激励と指示を受けた。今回ほど政治との距離が身近に感じたことはなかった」と述べたがそれと同じように国民との距離も短くなったはずである。テント生活で支援活動を続ける自衛隊に住民たちが新鮮な野菜や取れたての卵を持ってその労に報いた話をあちこちで聞く。

 講演が終わって君塚陸将に4月27日に行われた天皇陛下との会食について質問した。「日付は手帳を見ないと分からいが1時間ほど会食をしました。内容についてあまりしゃべらないでと口止めされている」と答えるにとどまった。陛下が自衛隊の幹部と会食するのは極めて異例な出来事である。それだけ今回の自衛隊の活躍が際立っていたということであろう。