2011年(平成23年)7月10日号

No.509

銀座一丁目新聞

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追悼録(423)

鈴木区隊長とフラガール


 「ハー 朝も早よからようカンテラ下げてナイ
 坑内通いはヨーイ ドント主のためナイ」

 編曲鈴木正夫とあるご存じ常磐炭鉱節の一節である。偶然にもかつて炭鉱の親会社常磐興産社長と同姓同名で、社長になったほうの故鈴木正夫氏は、終戦時、陸軍士官学校第54期生の歩兵大尉である。表題と離れるが、私と鈴木氏との関係より書くこととする。筆者は銀座一丁目新聞主幹の牧 念人氏と同期の第59期生で、陸軍士官学校本科在校時鈴木氏より私のクラス約40名(区隊という)4年先輩の受け持ちの区隊長(あだ名はガラマサ通称ガラ)として本科一の猛烈な日夜訓育指導を受けた。いささか並はずれで彼の座右の銘は『破天荒の実行力』。徹底したスパルタ教育で、教室や2`ほどある練兵場への移動など隊伍を整え全部駆け足、温かい夕食は食べたことなし、彼が週番士官として泊っている時は、夜中に安眠を破り非常呼集で起こされ、完全軍装で駆け足、ポヤポヤしていればひっぱたかれる。しかし、戦(イクサ)に強い将校をつくる一念はひしひしと判るので始末が悪い。歯を食いしばって訓練を受けるより仕方がなかった。当時筆者19歳。

 一年足らずではあったが、猛訓練の甲斐もなく敵に遭遇せず、終に大東亜戦争終戦、涙を飲んで思い出を胸に解散、ガラマサとも別れたのであった。しかし、ガラはその後の並々ならぬ破天荒の実行力で東大にパスし、卒業後故郷いわきの常磐炭鉱に就職、適任の労務畑を歩むことになる。当時の部下に聞くと相変わらず破天荒で、炭鉱に入ると脚がはやく部下が着いていけないのだそうである。しかし、人情は厚く部下思いの反面、手が早いのでよく殴ったようだ。また、落盤事故の時の危機管理能力の名指揮ぶりは後世に言い伝えられていた。

 1950年当時朝鮮戦争特需景気で隆盛を極めた黒ダイヤも次第に石油エネルギーに変わり石炭の需要は急激に減り始め、加えて1976年最も良質の石炭を出し、最新式全自動の中郷鉱の大出水で水没事故発生、ついに閉山のやむなきにいたった。多くの失職する社員(組合員)は?その家族は?当時労務部長であったガラに、組合は、炭鉱一家でガッチリとスクラムを組み、炭鉱部落に居住し団結は強固、気の荒い炭鉱の連中なので命を狙われると、会社は彼にガードマンを付けた。ガラの心境やいかに?

 陸士在校中からシボられブン殴られながらなんとなくウマがあったようで、この話は、ほとんどガラから直接聞いたものであり、教え子で筆者のみは戦後も交誼は続いていたのである。再び、明晰なガラは、エネルギーの転換で石炭産業の没落の時代を予想し、着々と創意をめぐらしていた。卓見である。いよいよ、参謀としてのガラの活躍が始まる。また、将来の将たる器としての力量を上司より試されるのである。ガラは第二の終戦と遭遇、しかも今度は責任者として最前線にたつこととなる。これからが血の気の多いガラの必死で夢中の実行力が発揮されるのである。

 常磐炭鉱は豊富な湯量を誇る常磐湯本温泉にある。石炭1dを採掘するのに40dもの温泉出てしまうのでそれを街中では処理しきれず海に捨てていたのである。採炭して選別し、あとの不良のかすを捨てる場所が山となる。いわゆるボタ山である。常磐ではズリ山といい今でも各所に残っているが、その広大な空用地を確保していた。時まさに社員は雇用問題で大騒動になりつつあった。
いよいよガラの出番である。

 かねてより捨てていた豊富な温泉を活用し、大構想のレジャーセンターの建設を当時の社長に具申し応諾を得、いよいよ破天荒に辣腕を振るうことになる。街の奥のズリ山用地にドデカイ大レジャーセンター常磐ハワイアンセンターを建設しようとするばくちのような構想である。手本は北海道夕張炭鉱の施設であったが、しかし、あとで夕張は大都市より余りにも遠く失敗に終った。湯量豊富、小名浜漁港を控え新鮮な海の幸、気は荒いが人情は厚く、常磐は首都圏大都市に近く極めて有利で、炭鉱の社員を不平不満があっても雇用に振り向ければ人員は十分充足できる。小名浜港へハワイや南洋の島々よりヤシやバナナ等を移入し各種大温泉プール・多くの大浴場・スライダー・イベント会場、レストラン・売店等館内設備は充実できる。しかし、採用しても炭鉱関連のド素人、1996年の開設まで従業員の訓練が大変、「要は人」である。とにかく炭鉱一家がサービス業に180度の転換できるのか?」

 まず、ハワイ・夕張や各イベントの経験者・ダンス特にフラダンスの先生など幅広くの教授、ホテル関係の指導者を招へいして教えを受ける。勿論「将の将たる器」のガラのこと、周到に人員を適材適所に配置する。徐々に縮小する炭鉱従業員の首切りは一切なし。従業員も炭鉱で鍛えた体力気力は十分、真面目でねばり強い。例えば宴会で司会がうまかった事務の兄ちゃんは舞台に躍り出て名司会を、チョットかわいい女性はフロントや売店に、採炭に活躍した見るもたくましいおばさんたちはホテルの掃除や布団の上げ下げに、そして売り物のハワイアンダンスは炭鉱従業員やその子女よりと。とにかく、全員がまじめで真摯に生きるため必死であったのだ。

 いわきは盆おどりやお祭りで三日三晩踊り明かすほど踊りの好きなところであるが、何ともこの可愛い娘のケツを振り振りのハダカ踊りは、本人がやりたくても親が許してくれず大反対、この説得の苦労は名映画で年度の賞をいただいた『フラガール』でごらんください。また踊り子たちの不器用でもひたむきに情熱を傾けるレッスンにはすさまじいものがあったに違いない。問題のないようステージと宿舎との往復は用意のボロバスで宿舎に直行、宿舎は男子禁制で合宿という念の入れよう。まだ関係の生存の方々がいて映画ではあるが実話が多い。しかし、実情はもっともっときびしかったに違いない。教師役の松島 泰子、母親役の富司 純子さんの熱演で涙をそそる物語である。

 筆者は、センター開設当初お伺いしてガラより案内をされ、説明をお聞きし、フラガールの必ずしも一流とはいえぬ一生懸命踊る姿を見ながらガラを始めとする従業員の生き抜こうとする必死の努力に只ただ敬服し涙した。そして、ガラは終に社長に上りつめるも、残念、平成6年8月3日さしものガラ正も人生を燃焼し尽くしたように急逝した。人情味あふれ、悔いのない72歳の生涯だったろう。

 センターは途中で常磐興産傘下スパリゾートハワイアンズと名を変え、営々と手広く首都圏のお客を取り込みながら営業をしていたが、本年3.11東日本大震災に遭遇、いわきは大被害を受け、施設は避難所として活用され、営業どころではないそうだ。そこでフラガールは地方巡業を発案、早速開始したそうである。相変わらずのたくましさを感じ、「破天荒の実行力」の精神が脈々と継がれ、ガラ正もって瞑すべし。フラガールのオネーちゃんたちの活躍や、一日も早いセンターの復興を念じてやまない。


(安 本丹)