吉田松陰の「留魂録」(全訳註・古川薫・講談社学術文庫)に「今日死を決するの安心は四時の循環において得る所あり」の言葉がある(8章)。穀物の収穫にたとえた死生観を述べた部分である。85歳を迎えた私には非常に参考になる。10歳で死のうが20歳で死のうがそれぞれに四季があり、花を咲かせ、実をつけ、種を残す。そのまかれた種が絶えずに、穀物が年々実ってゆく。それと同じように松蔭の教えが受け継がれてゆくことを望みたいと謙虚に同志に書き遺した。安政6年(1859年)10月29日、松蔭は刑死した。時に30歳であった。
その教え子から多くの人材が育だって行く。伊藤利助(後博文・18歳)は「内閣の父」、山県小輔(後の有朋・21歳)「陸軍の父」、品川弥次郎(16歳)「内政の父」、井上馨(23歳)は「外交の父」、遠藤謹助(23歳)は「造幣の父」、山尾庸三(22歳)は「造船の父」とそれぞれ言われた(年齢は松陰に学んだ時期)。門下生で最も長生きをした天野清三郎(昭和14年、97歳で死去)は松蔭の性格について「怒ったこと知らない。人に親切で誰にもあっさりしていて丁寧な言葉使いの人であった。講義は上手であった」と語っている。作家の古川馨はここに松蔭の感化力の秘密があったと指摘する。
『死を決するの安心』について大仏次郎は「安政の大獄」(徳間書店・1990年初版)で別の解釈をする。歴史小説と言いながら見事な人間洞察である。「言葉は魔法である」と大仏は書く。「躯の中の奥底にあるものが、いつの間にか迸り出る。『死を決するの安心』と書いた時、自分は決して安心していない。安心したいと思ってそう書くのだ」本心は(死にたくない。まだ死にたくない)のであるという。「生きて働いて国のためになりたい。そのおれを殺すつもりなのか!憤りなのである」ともいう。
留魂録の最後に5首の歌が残されている。
心なることの種々(くさぐさ)かき置きぬ思ひ残せることなかりけり
呼び出しの声まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな
討たれる吾れをあはれんと見ん人は君を崇めて夷払えよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
大仏は綴る。「松陰は30年の生涯を凄じい熱情を傾けて生にかぶさっていたように、死に対しても同じ情熱を引っ提げて向かい、虚無の中に呑み込まれて消えることはなくて、逆に自分の生命がにわかに広がって輝かしく宇宙に氾濫してゆくように見えてくる。絶望などと言うものはかけらもない」だからこそ「留魂録」の最初にこの歌がある。
「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留置まし大和魂」
「俺の魂は残る。あらゆる奇蹟がこれから起きる。どんな圧迫もこれだけは遮リ得ない」と大仏は記す。明治維新の大業は松陰刑死9年後に迎える。
(柳 路夫)