安全地帯(324)
−信濃 太郎−
大正時代、新宿の寄席「光風亭」の写真
友人から次のようなメールと写真が送られてきた。「銀座一丁目新聞(6月10日号「花ある風景」)に寄席の話しが出ていたので、昔の寄席の写真をご参考に供します。戦前に新宿の淀橋に光風亭という寄席があり、昭和15年前後に映画館に衣替えしました。今はありません。大正14年8月21日開業当日の写真が父の写真帳にありました。残念ながら噺家の名前が確認出来ません。寄席『光風亭』の資料がありましたらご教示下さい。淀橋(第一)、高円寺(第二)、中野(第三)と三軒ありました」
大正時代の落語界を調べてみた(小島貞ニ編「落語三百年」明治・大正の巻・毎日新聞)。寄席は上野の鈴本、京橋の金沢、神田の立花、白梅、川竹、両国の立花家、人形町の鈴本、末広、浅草の並木、本郷の若竹、神楽坂の白梅、京橋の恵宝、四谷の喜よし等があった。落語家は小さん、円右、燕枝,小勝,円蔵、5代目柳枝、5代目左楽、志ん生、小柳枝、橘之助らが活躍した。
大正6年に「東京演芸株式会社」(資本金300円)ができた。落語家がサラリーマンになったわけである。これに対抗して「落語睦会」が生まれる。今までのように腕一本で稼ぐ芸術家を押し通す。落語家はそれぞれに属して、はげしく対立した。この両派対立の流れは現在にもおよび、会社派が今の「落語協会」、睦会派が「落語芸術協会」だという。大正12年9月の関東大震災で寄席は壊滅的打撃を受けた。「光風亭」は震災後建てられた寄席である。8月21日と言うのに羽織をしている人がいる。開業初日だからか地元の著名人が招かれ威儀を正したのかもしれない。もちろん白い着物姿の人も見受けられる。
大正時代で名前を挙げなければいけないのは“爆笑王”柳家三語楼である。横浜生まれで、少年時代外人の商社で働いたので英語ができ、カタコトの英語交じりの新作落語が人気を読んだ。『細巻きの洋傘』は有名であった。落語家で洋服を着た第1号と言われる。三語楼門下から柳家金語楼、権太郎、5代目古今亭志ん生などが出た。
話を面白くするため、戸板康二さんの「第4ちょっといい話」(人物柱ごよみ・文芸春秋刊)を紹介する。「江戸家猫八は軍隊にいる時.(中略)檀上で地方出身の兵隊が喜ぶだろうというので殿様ガエルの声をケロケロゲッとやって大拍手。次に女のカエルを鳴かせますというと、みんながどよめく。出来るだけ、色っぽくピピピピッ、キュウキュウと鳴いていると、一等兵がツカツカ前にでてきて、どなりつけた。「オイ貴様、おれは農家の出身であるがメスのカエルは鳴かないんだ。ばか者ッ」。この辺で失礼します。
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