2011年(平成23年)6月10日号

No.506

銀座一丁目新聞

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追悼録(420)

保科正之のリーダーシップに学ぶ


 徳川4代将軍家綱を補佐した保科正之という人物がいた。明暦の大火の際、彼が見せたリーダーシップは見事であった。今から454年前の明暦3年(1657年)1月18日午後、本郷丸山本妙寺から出火、折からの北西の風にあおられて燃え広がった。20日朝に鎮火するまでに江戸市内のほとんどが焼失、江戸城も5層の天守閣が焼け、本丸・二の丸・三の丸を焼いた。武家屋敷だけで五百が焼失した。焼死者十万八千人を数える。この時、家綱11歳であった。正之は家光の遺命により西の丸で幼主家綱に代わって政務をとっていた。時に41歳。幕閣には大老・酒井忠勝(65)、老中・阿部忠秋(50)、同じく松平信綱(56),元老・井伊直孝)62)らがいた。正之は一番若かった。もうもうたる黒煙が本丸に及んでくると,将軍をよそへ移すことを考える。酒井忠勝は自分の別荘へ、松平信綱は東叡山(上野寛永寺)へ、井伊直孝は自分の赤坂の屋敷へそれぞれ立ち退かせようと言う。これを阿部忠秋と正之が「みだりに将軍を城外へ移すべきでない」と反対した。正之が下した判断の元には当時、丸橋忠弥の残党が暗躍している恐れもあったし、武門の頂点に立つ者が軽々しく江戸城を捨てるのはいかがなものであるかと言う気持ちもあった。ともかく将軍は常に本拠に腰をしっかりと据え、やたらと飛び出すものではない。

 さらに火が浅草の米蔵にかかり、防ぎようがないとみられた時、老中たちは火消しを出してなんとかこれを防ごうとした。浅草の米蔵には百万俵が収められておりこの米蔵が焼失したら旗本・御家人の蔵米取りの者たちの年収がゼロになってしまう。

 そこで正之が取った措置は逆転の発想であった。庶民に浅草の米蔵の米は取り放題と触れを出した。庶民たちは火を消しながら浅草へ走った。おかげで焼失するはずの米は救助米に変わった。鎮火後の20日には被災者に大雪が襲い凍死者を出した。正之は府内6ヶ所で1週間お粥を与える。米は浅草の米蔵から1日千俵の米を放出した。寒さに凍える被災者には温かい食べ物が何よりだ。屋敷を焼失した旗本には建築費を出し、家を失った町方にも1軒当たり3両5分合計16万両を出した。やることなすことが早い。もちろん反対を唱える者もいた。正之は「国のお金はこのような大災害に下々に施し士民を安心させるためで、国家の大慶とするところである。ただ積み置くだけでは蓄がないのと同じである」と主張した。また巷に焼死体が放置されているのを知ると調べさせたうえ一か所にまとめて慰霊することにした。本所牛島に集められた遺体は9653柱。合葬した。万人塚と称した。のちの回向院である。

 問題は次から次へと起きる。米不足から来る米価の急騰である。正之が取ったのは「大名たちの帰国政策」であった。参勤交代で江戸にきている諸国の大名を帰参させ、江戸の人口を4千5百人ほど減らした。このため米価はたちまち安定した。素晴らしいアイデアだ。正之は万事に節約に務め、江戸城の天守閣は城の要害として必要なものではないとして再建しなかった。

 正之は寛文12年12月、三田屋敷で死去する。享年62歳であった。徳川2代将軍秀忠の4男だが育ちに恵まれたというかその資質は抜群である。事があると、事の本質を見抜き適正な判断を下して政策を実行に移す。根本に庶民の心を思いやり、大局に立ち幕府の治世を考えていた。単なる思いつきやパーフォマンスではなかった。和歌や俳句をたしなんだ。

 「民にしらぬさむきは夜の錦哉」


(柳 路夫)