2011年(平成23年)6月10日号

No.506

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安全地帯(323)

信濃 太郎


私が写した昭和19年初夏の写真

 

 同期生、霜田昭治君と雑談していると「陸士の予科時代写真をやったことを覚えているか」と聞かれた。私は即座に答えた。「覚えている。おれは当時、教官と二人の同期生を写した写真を持っている。しかし、ピントがぼけ露出も悪く、失敗作だった」(参照)。周りの同期生に写真実習について聞いても誰も覚えていない。

 話の発端は霜田君が昭和19年6月に神田・神保町に住む父親宰二さんにあてて出したハガキである。そのハガキに「今日は初めて写真の実習を致し歴史の小林教官殿と一緒に撮りましたが残念ながら大失敗に終わり些か面目を失ひまたこの次はしっかりやってお見せいたしましょう。写真はなかなか難しいものです」とあった。そこで私の写真帳から「写真の実習」の写真を取り出して彼に見せた。雄健神社を背景に物理の教官の左に林成美君(歩兵)右に石黒武君(工兵)が写っている。二人とも第二区隊であったのが昭和19年3月に航空士官学校へ行く同期生が卒業してから第一区隊に編制替えしてきたものであった。写真の撮影時期は4月から予科卒業の10月の間である。もっと正確に言うと、霜田君のハガキの消印が6月9日とあるからその頃、中隊を問わず、地上兵科の同期生たちに写真実習が行われたと推測される。戦後66年、よくも父親あてのハガキが残っていたものだと感心する。林成美君とは戦後間もなく都庁であったことがあるがその後消息不明である。石黒武君は戦後自衛隊に入り。府中の我が家に訪ねてきたことがある。今は秋田市に在住している。

 予科時代電気通信と機械工学はよく教えられた。資料によると物理工学科では発動機「発動機の基本的知識並びに技能を授け機械の取り扱いに関する応用技能を付与する」光学機械「光学兵器の理解及び取扱に必要なる事項を主とする」とある。確かに写真実習はあった。

 写真の背景の雄健神社は表門の小高い台上にあった。祭神は天照大神、そのもとに大国主命、経津主命武甕槌男之神が配祀される。さらに戦病死された我々の先輩将校3千32柱が合祀されていた。毎朝ここにお参りに来て軍人勅諭を奉唱した。陸士時代の写真32葉の内、雄健神社が写っているのかこの一枚だけである。今となれば貴重な写真である。現在、雄健神社は「雄健神社跡」として遺っている。次のような説明がある。参考資料として書いておく。

 


雄健神社は、昭和16年10月 陸軍正規将校の養成の場であった陸軍予科士官学校が市ヶ谷からこの振武台に移転した時に 将校の守護神として建立されたものである。

当時16、7歳の若き将校生徒達は毎日この社頭に額づいて心を正し純忠至孝崇祖感恩の誠を捧げ国を護る崇高な使命のもとに殉じた幾多の先輩の遺志を継ぎ 立派な生徒になることを誓い 日夜修文練武に励んだものである。昭和20年8月第二次世界大戦の終戦とともに 伝統ある陸軍予科士官学校もその幕を閉じた。その際御神体等を振武台碑の地下に埋設し 占領軍による接収四散を防いだ 昭和40年に至り士官学校出身者と自衛隊の手でこれを発掘し御神体は靖国神社に奉安した。


昭和58年10月 本神社跡周辺地域が 朝霞駐屯地の管理になるにおよび 往時の将校生徒の純真にして崇高な精神をはぐくんだこの地を史蹟として永久に保存し その名をとどめるとともに国の防衛に任ずる隊員の教育と士気高揚のため これを 「雄健神社跡」 として建立した。


         寄贈者  偕行社
         協 力   長瀞町 町長   黒澤 孟文