2011年(平成23年)6月10日号

No.506

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山と私

(75) 国分 リン

― 感激に涙溢れた「雪山・槍ヶ岳」 ―  

 名前の如く天に槍をつく形が特徴的な高山であり、その形から「日本のマッターホルン」とも言われる。そのピラミダルな山容にふさわしく、槍ヶ岳は四方に尾根と沢を伸ばしている。尾根は東西南北に、東鎌・西鎌・槍穂高・北鎌の四稜、沢は東南に槍沢、南西に飛騨沢(槍平)、北西に千丈沢、北東に天丈沢の四沢である。

ウィキペディアより
名峰の手帳から 命がけで開山した播隆上人 槍ヶ岳の開山は1828年、富山出身の播隆上人(1786〜1840)による。上人が初めて槍ヶ岳を見たのは西の笠ヶ岳から。鋭く天を突く孤高の姿に心を動かされ、開山を決意。登頂の2年前には槍の肩まで偵察し、いったん里に下り、浄財を集めて仏像を鋳造。その仏と共に満を持しての挑戦だった。困難をきわめたのは、やはり槍穂の岩登り。案内人・中田又重郎とともに命がけで登頂。後続の登拝者のために鉄鎖をかけることを呼びかけ、1840年、信者によって宿願の鎖がかけられた。上人が他界したのは、その年のことという。 
参考資料「播隆上人と槍ヶ岳」穂刈貞雄(「北アルピス大百科」所収)

 5月連休は雪山へ絶対登りたくて、スポニチ登山学校の片平講師に相談したら、「まだ雪の槍を登っていないなら、私がガイドを引き受けます。後は天候次第ですが。」槍は無理かなと諦めていたので「本当に登れますか」と何度も念を押した。槍を目指すために7階の自宅まで階段を上り、トレーニングをした。

5月3日(火)5時40分夜行バスから上高地へ降り立った。冷気が一気に眠気を覚ました。「登山届けをお願いします。今年は雪が多いですよ。ようやく晴れました。」嬉しい声が聴けた。片平先生が届けを出し、準備を済まして、6時出発。河童橋はこの時間静かに朝を迎えていた。一刻も時間を無駄にできず小梨平のキャンプ場を早足で歩いていたら「酒井先生?」知った顔に遇いびっくりした。「5日間の予定で絵を描きに来ています。登ったら穂刈康治氏(槍ヶ岳山荘3代目社長)に日本山岳文化学会総会で故大森薫雄前会長を偲ぶ会をするのでぜひ参加をお願いしてください。」と言付けを頼まれた。明神・徳沢・横尾をフルスピードで歩く。横尾で穂高と槍の分岐、7対3で穂高を目指すパーティーと分かれる。いよいよ槍沢ロッジを目指して山道に入ると雪道になった。沢沿いを一生懸命歩き45分ほどで槍見河原に着き槍を見ながら休憩、しばらく歩くと二の俣吊橋に出て、また先を急ぎブルーのきれいな沢沿いを歩くと屋根が見え、槍沢ロッジ(1820m)到着。私は20年前8月槍ヶ岳山荘から下り、古いロッジに宿泊したが、きれいな小屋になっていた。アイゼンを付け、ピッケルを持ち、いざ出陣。緊張で喉が渇きポカリを飲み、深呼吸をした。ここから高度差1200mを登りに登る。ザックザックと雪を踏み、真っ白な世界に飛び出した。槍沢カールの広い雪景色、前方を歩く人々が点々と見え目安になった。赤沢岩小屋が屋根だけ見え周囲はテントが3張りあり、ここがテント場と分かった。少し休憩をとり、またひたすら雪を蹴って歩く。片平先生の足元を見、雪のぬかるみは歩きにくい。やっと大曲に到着、高度計は2580mを指していた。前方を見ると建物と登っている人影が見える。もう16時になっていた。折から景色は何も見えず風がヒューヒューうなりを挙げ吹雪になり、容赦なく頬を叩く。点々と目印の旗が遥か彼方遠くに見えた。「もう1時間だよ」片平先生の励ましが聴こえた。この最後の登りは傾斜もきつく一歩一歩足を上げ、10歩で息を整え、自分とのたたかいになった。「何でこんな辛い登りをするのか」「とにかく槍の山荘までがんばる」と言い聞かせては重い一歩を踏み出した。やっと山荘が見え、気力を振り絞り牛歩で17時30分やっと槍ヶ岳山荘3060m到着。夕暮れの中にピンクの槍の穂先が姿を見せた。「写真は?」翌日後悔するのは分かっていたが、気力は無かった。でも無事に登れた。山荘の中でザックを置き、ホッとしたら涙が溢れた。 

5月4日(水)「ご来光は駄目ですね」片平先生が窓から外の吹雪をみて教えた。「今日は穂先に登って、上高地の徳沢へ下山すれば良いのでゆっくり行動しましょう」6時に朝食をとり、ザックを整理し山荘へ置き、片平先生がロープでアンザイレンしていよいよ穂先へ、まだ吹雪いていた。岩に雪が張り付き、緊張の連続、慎重に慎重に片平先生の指示通り、岩をよじ登り、ハシゴを登り継ぎ、下を見ず上へ上へと登り、穂先3180m7時30分到着。ウワー登れた!でも吹雪は続き、強風に「危ないので直ぐ降りましょう。」写真も撮れず残念、でも登れた。下りがもっとこわい。「大丈夫、私がロープで確保するので安心してゆっくり足元を確認して降りてください。」吹雪に登った道は消され一歩ずつ慎重に降りた。山荘に戻りほっとして、穂先を見るがまだ吹雪の中。山荘前で鯉のぼりを持ち記念撮影をするグループもいた。あっと言う間に鯉のぼりが風に飛ばされてしまった。8時30分「これで下山します。」最初の下りが昨日苦労した傾斜のきつい場所「念のためアンザイレンします。」安心して降り、殺生ヒュッテ小屋の見える場所へ着き、ロープを外し、後を振り返ると見事な青空になり、槍の穂先も見事に姿を見せた。その頃から大勢の登山者が列を作り登ってきた。昨日槍沢ロッジに宿泊した人々だ。まだ午前中なので余裕もあり、若いグループが多い。山スキーやスノーボードを担いでいる人もいた。「ここから尻制動で滑り降りますよ。」

 ピッケルの使い方を習い、300mを一気に滑り降りた。片平先生の後ろを滑ると良く滑る。大曲まで滑り降りたら雪が悪く、傾斜も無くて滑らず、また歩きだした。13時槍沢ロッジ到着。アイゼンを外し、うどんを注文し食べ、いよいよ徳沢を目指して降りた。横尾に15時到着。新しい道が河原に出来ていた。またひたすら徳沢を目指し16時到着。赤や黄色のテントが徳沢の広場にたくさんの花を咲かせていた。徳沢ロッジにキャンセルが出て泊れた。お風呂に入浴した後に今回の槍への山行は終ったと実感した。片平先生のお陰で今回の雪の槍ヶ岳は登れたと深く感謝した。

 今考えても良く登れたと思う。雪の槍ヶ岳は手強かったが、素晴しい山だと改めて思う。この夏、細心の計画で友を連れ、高山植物を求めてまた槍へ登りたい。