2011年(平成23年)6月10日号

No.506

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花ある風景(421)

 

並木 徹

 

シネマ落語を見る・・・聞いた

 
 「寄席」・・・・本当は「寄せ場」であった。江戸っ子は気が短い。詰めて「寄席」になった。木戸銭は48文。入り口で下駄を脱ぐ。別に下足番に4文を払う。開演前なのにもう一束(百人)入っている。太鼓が鳴った。これが二番目だ。いよいよ開演・・・江戸時代(天文7年・1836年)の寄席はこのような状況であったらしい。現代、落語は映画でも見られる。木戸銭は2千円(東劇・5月31日)。お客の入りは2束くらいか。演目は古今亭志ん朝の『船徳』金原亭馬生の『臆病源兵衛』三遊亭円生の『引越しの夢』林家正蔵の「中村仲蔵」、題して「落語研究会 昭和の名人 弐」(第1回は昨年12月)、「シネマ落語」である。上映時間2時間2分。

 私の心に響いたのは林家正蔵「中村仲蔵」であった。見るからに正蔵は頑固一徹。自説を貫くような風貌である。芝居噺、怪談噺の古挌をかたくなに守ったといわれるのがよくわかる。明治28年5月、東京は品川で生まれ、浅草で育つ。「中村仲蔵」は十八番である。仲蔵は大部屋役者から座頭格に出世した名優である。1766年(明和3年・将軍徳川家治)「仮名手本忠臣蔵」五段目斧定九郎の役柄と演出を苦心の末に大幅に変え、その名声を高める。斧定九郎は当時名題であった中村仲蔵がやるような役ではなかった。その役を断ろうと思ったが女房に「何事も修行、一工夫してみたら」と言われた。そこで柳橋の妙見様に日参して工夫を重ねる。良いアイデアが浮かばない。8日目の帰り路、雨に降られたのでそば屋に入り思案しているところへ月代を伸ばした34,5歳の浪人が入ってきた。破れた蛇の目の傘をぽーンと放り出す。その様子を見た仲蔵が「これだ」と思い、その浪人からいろいろ聞き出して役作りをする。それを舞台で演ずる。あまりうますぎて観客はうなるだけである。失敗したと思い家に帰り女房にしくじったと話をして上方に旅立つ。途中、芝居帰りのお客が仲蔵の演技を絶賛しているのを聞いて女房に知らせたくて我が家に戻ると師匠の伝九郎から使いが来て「すぐ来るように」と言う。出かけると褒められた上、脇差までご褒美を頂く。話はめでたしめでたしで終わる。

 林家正蔵は昭和57年1月死去する。享年86歳であった。8代目を襲名したのは昭和25年であった。晩年名跡を7代目の実子・林家三平の遺族に返上、林家彦六を名乗る。「昭和の客の名人」と自称する小澤昭一さんが書いている。稲荷町にある正蔵さんのお宅にはいつ来客があってもいいように塩せんべいの包みをたくさん用意してあった。また長火鉢の前に座ってサイフォンでコーホーを入れてくれたがおいしくなかったという。

 でも、私は塩せんべいも食べたいし、コーヒーも飲みたい。正蔵師匠がこの世にいないのが残念でならない。