友人の野地二見君が「こんな写真が出てきたよ」と銀座の小料理屋『卯波』の写真を見せてくれた。『卯波』のすぐ近くに事務所(東京都中央区銀座1−5−19・仰秀ビル)があったから昼御飯に時折、利用した。事務所のあったビルは『卯波』とともに2008年1月末取り壊され、今は駐車場になっている。ネットで俳句道場を開設していたので俳人・鈴木真砂女には関心を持った。
卯波の開店は昭和32年3月30日と言うからその歴史は50年である。開店4年目の作。「降る雪やここに酒売る灯をかかげ」。知人や友人から借りた借金は8年で返したそうだが、公団住宅が当たるまでの風呂のないアパート暮らしはつらいものであったらしい。「幸せは逃げてゆくもの紺浴衣」の句が生まれる。
良い客層であった。勘定のトラブルは一件もなかった。ある時、ボーナス払いのある金融会社の課長が7万円の借金を残して突然、会社に無断で蒸発してしまった。ところが3年後姿を見せ請求書通りの金額を払った。奥さんとも別れた様子で深くは聞かなかったという。「湯豆腐や男の嘆ききくことも」。店で働いているとこんな句が浮かぶとすぐメモを取ったそうだ。
鈴木真砂女がかかわった男性は3人。その恋多き波乱の人生は小説となりドラマとなった。丹羽文雄の『天衣無縫』『かえらざる故郷』が生れた。お客には久保田万太郎、飯田竜太、森澄雄、藤田湘子、角川春樹等が顔を見せた。入り口のすぐ左側の隅の席が1等席である。石田波郷が「つぼやきやいの一番の隅の客」と詠んだからである。このころ彼女は「今生のいまが倖せ衣被」と詠む。
関東大震災にも遭っている。彼女は女学校4年生であった。夏休みで千葉県の鴨川の実家の旅館にいた。みんな夢中で裏の砂浜に逃げた。自宅前の土蔵造りの肉屋が崩れ落ち。自宅も瓦がほとんど落ちた。気がついた人が『津波だ』と叫んだので、あわてて今度は町の後ろの田んぼのある高台へ逃げた。途中何度も余震があり立っていられないので草にしがみついた。そのあと広い竹藪の中に避難する。街の人々もやってきた。夜露をしのぐため天幕を上に張った。東京が全滅のうわさもこの竹やぶの中に伝わってきたという。
「羅や人悲します恋をして」と歌った真砂女が死んだのは平成15年3月14日、東京都江戸川区の老人保健施設であった。96歳であった。
「戒名は真砂女でよろし紫木蓮」
(柳 路夫) |