2011年(平成23年)5月1日号

No.502

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安全地帯(319)

信濃 太郎


 

 靖国神社の春の例大祭に出席した(4月21日)。大震災に見舞われた今年の靖国の春は寒かった。『難に耐え今年も咲けり宮桜』(有楽)。当日祭は午前10時(4月から始まった。例年に比べると参列者は少ない。いつもなら参集殿は賑わっている。東北地方の遺族の不参加が響いているようである。まず太鼓が10回高らかに響く。参列者一同の国歌斉唱。京極宮司の祝詞奏上、勅使の玉串奉奠と神事が厳粛に執り行われる。国学院大学混声合唱団・同吹奏楽団による「鎮魂頌」と「靖国神社の歌」の合唱。靖国神社の歌の1番「日の本の光に映えて 尽忠の雄魂まつる 宮柱、太く燦たり ああ、大君の御拝し給ふ 栄光の宮 靖国神社」天皇陛下の御親拝は絶えて久しい。いつの日に実現するのであろうか。

 神職が昭和20年8月9日木更津飛行場から飛び立った神風特別攻撃隊高津少尉の遺言を朗読する。しりょうによると、この日飛び立ったのは、「神風特攻第7御盾二次流星隊(林憲正中尉)ら『流星』12機とある。高津機もこの中にあったものとみられる。19歳の高津少尉が戦死した前日8日はソ連が参戦、満州になだれ込んでいる。翌10日はポツダム宣言受諾である。4月の靖国神社の拝殿・社頭に掲示されていたのは陸士57期生・森脇誠次郎中尉(航空士官学校第4中隊第2区隊)の遺書であった。森脇中尉は昭和20年4月12日沖縄方面にて戦死(陸軍士官名簿によれば沖縄北飛行場付近にて戦死とある)、静岡県浜名郡長上村出身、23歳であった。遺書「生還もとより期せず」には「先輩逝き、同期生逝くを我一人残りたるのさみしさ比するものなく、今日はその仇討に力一杯の奮闘を期しおり候 (略) 兄の如く思う先輩と共に、この栄えある攻撃に臨むを、この上なき喜びと存知居り候」とあった。

 明治天皇の御製に「敷島の大和心のををしさはことある時ぞあらはれにけり」とある。戦前、日本男児は一旦緩急あれば戦の場で国のために命をささげた。千年に一度と言う東日本大震災にも自衛隊、警察官、消防隊員がわが身を捨てて公のために尽し、国民を感動させた。

 同期生の河部康男君、西村博君と昇殿参拝に移る拝礼する。河部君は昭和19年6月にベトナムで鉱山技師(軍属)と働いていた父を亡くしている。この日は妹さんとともに遺族として参列する。最後に京極宮司が「大震災のため桜祭りも奉納行事もすべて中止を余儀なくされた。4月1日には震災で亡くなられた人々の追悼を行いました」と挨拶した。

 春の例大祭は本来は”華やか“であるはずであったが今年はまことに地味であった。
「寒椿海底の怒号波の声」(悠々)。地味な例大祭の中に修羅場に立たされた時人間は「国のために死力を尽くす」ことをひしひしと感じることができた。