関東大震災の際、内務大臣兼帝都復興院総裁として腕を振るった後藤新平(昭和4年4月死去・享年71歳)の郷里は岩手県奥州市。今回の東日本大震災の被害地である(岩手県では3709人の死者を出す)。関東大震災時、後藤新平は何をしたのか振り返ってみる。関東大震災の死者行方不明者は105385人。今回の東日本大震災をはるかに上回る。震災後9月27日、帝都復興院が設置された。総裁は後藤新平。帝都復興計画が提案される。それは被災地を全ていったん国が買い取る提案や、100m道路の建設、大規模な区画整理、公園の設置、ライフラインの共同溝化など、革新的な近代都市計画であった。提出された予算は13億円であった。国の算の1年分であった。今日なら90兆円に相当する。「大風呂敷」とあだ名される理由である。当時の経済状況や当時の政党間の対立などにより13億円の予算が半分以下に縮小された。菅直人首相も震災復興担当相、復興庁の創設を考えているがやることがすべて遅い。出来ることからやるべきことを早くやるべきである。組織はあとからついてくる。16年前の淡路・神戸震災の際には震災発生から4日目にすでに専任の震災担当相を設けられた。
大連にいた関係で満鉄初代総裁後藤新平の話をよく聞いた。人材を登用するのが上手である。人材を多く起用した。30歳40歳の若手を用いて満鉄のインフラ整備、衛生施設の拡充大連の都市の建設に力を尽くした。従業員14万人、鉄路1万キロの満鉄は創設当初から他の会社と異なった。仕事に命を賭ける。体ごとぶつけるのが満鉄魂であった。明治末年ペストが流行したさには日本から北里博士ら50数名の医師団の派遣を求め多数の命を守っている。後藤新平はよく「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」の言葉を口にした。それはよく現地をよく知って状況に合わせた施策をするというものである。だから台湾の民政長官時代、調査を徹底してやり経済改革やインフラ建設を進めた。児玉源太郎台湾総督のもと台湾統治が上手く行われたのは後藤新平の力が大きいかった。
さて、後藤新平を今にあらしめば何をするか。まず人材の登用である。各省庁の若手を抜擢する。この中に自衛隊もふくめる。法学者、都市計画学者、心理学者、物流の専門家を招聘、提案させる。いわゆる有識者は排除する。調査部の設置。事務次官会議を復活、活用する。予算は60兆円。期間は一応10年を目標とする。後藤新平死んで84年、この大震災を前にたじろいでばかり居ておられない。ともかく前進しなければ復興が始まらない・・・・
(柳 路夫) |