2010年(平成23年)4月10日号

No.500

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花ある風景(415)

 

並木 徹

 

友人の軍艦島の絵を見る

 

 
 友人の下川敬一郎君(福岡在住)が70周年記念を迎えた『創元展」に絵を出品したというので国立信美術館に足を運ぶ(3月30日)。驚いたことに観客の少ないことだ。活気がない。昨年は同じころ開催したが入り口は大変な混みようであった。下川君の絵が飾ってある会場を聞いたところ、「となりの壁に張り出してある」という。そっ気ない。

 お客の入りようは昨年の3分の1ぐらいであろうか。昼時だというのにオープンスペイスのレストランもすいていた。聞けば、東北・関東大震災に遠慮して70周年の記念祝賀会も記念画集出版も中止したという。展覧時間も1時間早めて午後4時までであった。

 下川君の絵は軍艦島(長崎・鷹島町端島)であった。昨年5月、夫人とともにツアーで訪れたそうだ。題は『刻のうつろい』。しばし絵の前で立ち止まる。角度が違うがとなりにも石川民子さんの絵も『軍艦島』である。丘に建つコンクリートのアパートの建物が描かれている。まさに“廃墟”である。その足下に丸太や大きな石がごろごろ並ぶ。かって炭鉱として賑わったところである。その歴史を垣間見れば、昭和26年戦災復興の波に乗って日本の石炭産業は最盛期を迎える。九州には473鉱山もあった。年産2480万トン、炭労組織13万9千人を数えた。ところが早くも昭和28年にはエネルギー革命がおこり、国内産業で重油転換が始まった。昭和35年の大争議「三池争議」を経て昭和38年には九州のヤマは最盛期の3分の1に減った。この間、炭鉱事故も少なくなかった。軍艦島は1974年(昭和49年)に無人島となり廃墟と化した。それから30数年たつ。近年産業遺産として注目されだしている。

 この島は昔、産業戦士の活躍の場であった。それが”エネルギー革命”で衰退、廃墟となる。一国の興亡に似る。杜甫の『春望』にまねて歌えば『島敗れて山河あり 廃抗(ヤマ)春にして草木深し 時に描きて花に涙をそそぐ 刻の移ろいあに悲しからずや』

 ニュヨークタイムズは伝える(3月28日)。「津波の日本は自粛と言う強迫観念にとらわれた」。つまり「少しでも贅沢に見える活動はすべて非難されるようになったとし、すべての層が生活面での“自粛”をするようになった」と言うのである(産経新聞・古森義久・3月30日)。それで合点がいった。この日、展覧会の入場者が少なかったのは“自粛”したからである。こんなバカのことはない。絵には不思議な力がある。見る人に喜び、楽しみ、向学心、生きる喜びをあたえる。被災地以外の人々も明日を生きて行かねばならない。その心の余裕は復興へのエネルギーとなるはずである。