2010年(平成23年)4月10日号

No.500

銀座一丁目新聞

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安全地帯(317)

安 本丹


もうひとつの「坂の上の雲」

 

(陸軍)鎌倉在住の私の日課は早朝散歩である。ラジオを耳に自宅裏の標高100bばかりの山を越えて約1.5q、ファミリーレストランで418円の朝飯を食べ、備え付けの朝刊を30分ほど読み、また山越えで帰る。山は井上ひさし氏が委員長で保存運動をして残した緑地で、自然の面影のある自然ゆたかで深山の面影を残す森林浴には快適な散歩コースである。膝を痛めている私には土や落ち葉のクッションがありがたい。緑のなかの山桜も点在し、これからの季節はお花見もすばらしい。途中一番大木の山桜(最近おおしまざくらと札が着く)を私は「勇者の桜」と名付け、通るときは必ず敬礼をすることにしている。かつてこの桜のかたわらにポツンと一基の等身大の古い墓があった。正面には陸軍伍長勲七等功七級○○○○之墓、側面に明治三十八(1905)年三月九日奉天近郊○○において戦死と刻んであったと記憶する。まさに日露戦争の奉天会戦で大勝利を得、奉天入城、大東亜戦争以前の陸軍記念日三月十日の前日である。鎌倉在住の若人の英霊は日本軍が旅順攻略で大損害を受けた中を生きて、攻略後ただちに転進し、強行軍で奉天会戦に参戦、左翼に進出してロシア軍を震え上がらせた第三軍乃木将軍隷下の第一師団であったのではないだろうか。英霊が旅順の大苦戦では生き残ったのに、奉天を指呼の間に望みながらさぞ無念、察するに余りあり。
 ところが、その墓石が三年ほど前忽然と姿を消した。ちょうど緑地保存運動が効を奏し、開発業者が撤退したころだった。土地の古老や市役所に聞いたが墓はどうなったか、行方はいまだにわからない。墓の碑文を書きとめて置かなかったことを後悔している。しかし、山桜の大木はまた、今年も勇者を弔い「坂の上の雲」に向かって咲いた。 敬礼 

(海軍)鎌倉駅より大船駅よりの横須賀線寿福寺踏切のすぐ近くの路地の突き当たりに大きなやぐら(鎌倉は土地が狭いので洞穴の中に墓をつくることが多かった)がある。中には千葉一族で相馬氏を継いだ千葉師常(モロツネ)の墓がある。吾妻鏡に「元久2(1205)年11月15日 年67才 端坐合掌せしめて、さらに動揺せず、決定往生あえて疑いなし・・・・」の大往生であった。付近は千葉屋敷と称し、広大な敷地を持つ大豪族である。そしてその上にもまたやぐらがあり師常の父源頼朝開府の功労者である常胤の墓があるが、その横に今様の石塔があり海軍一等軍楽手勲七等功七級渡辺裕蔵とある。側面の碑文は潮風を受けだいぶ風化しているが、明治三十八年五月二十八日、連合艦隊旗艦三笠艦上において戦死と読めた。まさにその日は日本海海戦でバルチック艦隊を撃滅した海軍記念日その日である。おそらく、千葉一族の方であろう。一瞬電撃を受けたような気がした。東郷司令長官や秋山参謀のもとで活躍し壮烈な戦死を遂げたのであろう。そして、始め知ったことだが、旗艦三笠には軍楽隊が乗り組み、戦闘ともなれば軍楽手も共に参加し艦と運命をともにするのだろう。改めて護国の英霊のご冥福を祈るや切である。   合掌

 (28a榴弾砲)私は銀座一丁目新聞主幹の「牧 念人」牧内節男君と同期の陸軍士官学校第59期生の歩兵である。昭和20年3月某日、士官候補生隊付勤務(在校中一般の連隊に見習いにゆく教員の教育実習のようなもの)として京都市伏見の第16師団歩兵第9連隊に派遣されたのである。16師団はレイテ島で米軍上陸の正面で大損害を受けた師団だが、留守を預かる兵隊さんは優しいおとなしい人が多かった。某日指導教官に連れられ16師団のエリアにある伊勢神宮に参拝、その後、志摩半島南面の真珠の養殖で名高い風光明美の英虞湾(アゴワン)へ沿岸警備の見学に行く。半島の斜面を登るにつれますます広がる絶景を堪能する。そして突如砲台が数基あらわれた。平和な気配は破られ、ドでかいなんとも異様なズングリムックリしたこれが大砲かと思うような代物である。歩兵の我々は恐る恐る触ったりなでたり、丸いレールの敷いてある砲台はコンクリートで固められ、その上に迫撃砲の親玉のような砲身が海に向かって据えられている。横の銘盤には明治34年製とあり、こりゃー親父と同い年と感心させられ、当時(昭和20年)より44年前の製造である。もちろん重砲兵の連中は知っていたと思うが、沿岸警備の対艦船砲撃用に造られ、本来の目的である伊勢湾口の警備のため据えてあったのであろうが、これぞ、日露戦争で苦戦し多大の犠牲者を出している旅順攻城戦に転用するため18門を本土より輸送し、旅順要塞と要塞陥落後、203高地に観測所を進出させ、旅順湾内のロシア旅順艦隊を撃滅し、後の日本海海戦勝利の一端を担った約17,000発の砲弾を撃ち込んだ武勲赫赫の砲なのか。古いといえどかつては陸軍重砲兵が誇る大活躍の口径28aの榴弾砲(28榴)、私は実物をこの時一回見ただけであったがその形態の異様さを忘れることはできない。大東亜戦争以後、図体の大きいあの砲の処分はどうしたのか知らないが、現在NHK「坂の上の雲」の撮影のために造った実物大のレプリカが松山城ロープウェーの入り口に置いてあるそうである。

(注)明治20(1887)年大阪砲兵工廠がイタリアの28a榴弾砲を参考に製造、制式化した大口径砲である。弾はクレーンで吊り上げて装填し、発射速度は遅いが威力絶大。榴弾砲であるから弾道は低進しない。最大射程7,650b。