同期生池田一秀君が亡くなった(2月22日・享年85歳)彼と最後にあったのは平成20年5月28日に開いた「陸士59期本科14中隊会」(歩兵・工兵合同・参加者34名)であった。場所は11ヶ月鍛えられた神奈川県相模原市の自衛隊座間分屯地(元陸軍士官学校跡)であった。この日参加者全員で相武台碑の前で写真を撮った。後ろから2列目の左から2番目に帽子をかぶった池田君が写っている。池田君とは鳥居だけ残った雄叫神社跡を歩いたりして雑談した。あの頃(昭和19年10月から昭和20年6月)毎朝、雄叫神社では私たちは五ヶ条の軍人勅諭を奉唱、参拝した。池田君は私の顔を見て「あの頃よく腹が減ったが君はここをお参りするとそんなことを忘れると言ったのを思い出すよ」と意外なことを言った。私にはそんな記憶は全くない。当時は高粱飯であった。ひもじい思いはした。当時の区隊長・久保村信夫少佐は昭和62年12月23日に亡くなられた。池田君は同人誌「運河」に「ある法要」と題して久保村区隊長のことを書いた。その本を奥さんの宣子さんに贈ったところ奥さんが「あのころの凛々しい陸軍少佐の主人の姿が目に浮かんで涙しつつ何度も読み返しました」と書いている。久保村区隊長は当時結婚されたばかりで時々我々が日曜ごとに押しかけて乾燥芋や焼き大豆を御馳走になった。
戦後、彼は出版社に就職、私は新聞社に勤めたので会う機会が少なくなかった。新聞社が保存していた戦時中の写真の貸し出しに便宜を図ったとしてお礼に「日本の歴史」14巻の豪華本を頂いた。彼は必ず中区隊会には出席した。1,2区隊合同区隊会(平成14年6月7日・グランドヒル市谷)の時、彼から同じ区隊の福田春男君(昭和51年12月死去・享年50歳)書いた小説「炎の綾」をいただいた。この中で福田君が「死」について次のように考えていたのを知った。「我欲を捨てて、残る者の幸福を願い平和な明日の祖国への犠牲となることは、確かに有意義だし、名誉にも思うが、何故今まで玉砕が続くのか、玉砕が戦略上の必要と思えないのに他に方途がないのか。勝つために死を賭したいと思っていた」。福田君は玉砕戦法には批判的であったようである。私などは単純に「無様な死に方だけはしたくない」と考えていたに過ぎない。このように深く考えていた同期生もいたのを池田君は私に教えたかったのであろう。後年、古文書を研究していた。お寺の古文書を読み解いたものをいただいた。飽くことを知らない好奇心には敬意を表していた。
通夜の日斎場で孫の池田哲朗君(中学2年生)がフルートで祖父池田一秀君が一番好きであったという「青葉の笛」(作詞・大和田建樹,作曲・田村寅蔵)を吹く。「一の谷のいくさ破れ 討たれし平家の公達あわれ あかつき寒き 須磨の嵐に 聞こえしは これか 青葉の笛・・・」の調べが胸にしみた。参加した同期生は6名であった。心からご冥福をお祈りする。
(柳 路夫) |