2010年(平成23年)3月10日号

No.497

銀座一丁目新聞

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花ある風景(412)

安 本丹

私の2.26事件

 
 2.26事件は、数多の歴史書でご承知と思い、詳しい説明ははぶくことにする。
昭和11(1936)年2月26日、あの日、筆者は帝都東京が再度の大雪に見舞われ、積雪で道路が凍結し、スケートの真似をして喜びながら1.5`も離れた高井戸第二小学校へ登校する5年生の紅顔可憐(?)の少年としての貴重な体験である。うろ覚えのところは、ご容赦願いたい。

 先生が教室で行うことになっていた。いつも陽気な先生の態度が硬い。顔色も蒼い。これはただ事では無いと子供ながら感じた。「おはようございます」と皆ごあいさつ。先生は開口一番「今日は家に帰ってよろしい。気を付けて帰ること。おわり。」あとはなにも言わず教室を出て行かれた。先生は、東京都心の市ヶ谷に住んでおられたから通勤の途中、ただならぬ世情の気配を感じておられたのかも知れない。皆一瞬キョトンと鳩が豆鉄砲を食らったように、やがて、勉強が無くなったのでワーっと大喜びしたのを覚えている。それから、タラタラ、雪遊びをしながら友達と家へ帰ってきたところ、子どもながらに家の様子がおかしい。当時鮮魚商をしていていた父は毎朝8時ごろには築地市場から仕入れが終わって帰って来るのが、今日は遅い。やっと帰って来たが聞いてビックリ。皇居・議事堂周辺は広範囲に軍隊が出動して交通遮断し、タクシーが大きく迂回させられたとのことであった。父もかつて皇居を護る近衛兵として関東大震災に遭遇し、出動した経験もあり気配を感じたのだろう。「これはえらいことになったぞ」と何かはっきりしないが大事件が勃発したことだけは判ったらしい。当時はあの時間ラジオ(テレビや携帯は無い)も報道管制されていたのだろう、私は子供ながらにおとなの会話を聞いて何だか判らなかったが不安になったのを覚えている。

 また、当日早朝のこと、西荻窪にあった私の家は商売柄早起きなので、遠くで銃声が聞こえたのを鮮明に覚えている。当時は東京の師団の兵隊さんが武蔵野の面影の残る杉並方面に演習でたびたび来ることがあり、空砲をドンパチ撃っているのを軍国少年だったわれわれもよく見に行ったり、着いて行ったりしたものであり、今日は朝からまた演習に来ているのかとしか思わなかった。それがなんとまさに、日本を震駭させた2.26の陸軍大将渡邊 錠太郎教育総監の自宅襲撃事件の時だったのだ。大将のお宅は拙宅と1`ほどしか離れていないので良く聞こえたのだろう。後日近くまで行ってお宅のガラスが割れていたのを思い出す。あとで思い出したことだが、私もかつて陸軍士官学校のころ実包(実弾)と空包(演習用)の発射音が違うのを体得したが、そういえば銃声が普段より重かったようだった。

(註)渡邊大将は日本陸軍の陸軍大臣・参謀総長との三大要職にあり、自宅は電車からも見える中央線荻窪と西荻窪の間の沿線にあった。襲撃したのは歩兵第3連隊高橋 太郎少尉、野砲兵第7連隊安田 優少尉で、斎藤 実内大臣殺害後一個小隊を率い、野戦重砲兵第7連隊より田中 勝中尉の持ち出したトラック2台に分乗し渡邊邸へ向かった。襲撃の理由は、「軍部における天皇機関説の首謀」とか「軍部一体を示すため要職として陸軍大臣官邸に集まってもらうため迎えに行った」との説があるらしいが、とにかく警護の憲兵2名と銃撃戦になり、大将も拳銃で応戦されたが、機関銃の掃射を浴び殺害された。大将は中隊長として日露戦争旅順要塞攻城戦で負傷されている勇士。

 後日談として最近、惨劇の事件に居合わせたお孫さんが立派な修道尼として著書を出し、また、布教されていらっしゃるのを新聞で知った。