2010年(平成23年)1月20日号

No.492

銀座一丁目新聞

上へ
茶説
追悼録
花ある風景
競馬徒然草
安全地帯
いこいの広場
ファッションプラザ
山と私
銀座展望台(BLOG)
GINZA点描
銀座俳句道場
広告ニュース
バックナンバー

 

追悼録(406)

生まれ変わったら夫と再び結婚されますか


 『銀座展望台』に次のように書いた(1月13日)。
「菅直人首相の伸子夫人が日本外国特派員協会で講演。その際「生まれ変わったらまた菅首相と結婚されますか」の質問に「別の人と結婚します。その方が楽しいございます」と答え、会場は爆笑となる。女性は実によく男性を観察している。その感は鋭い。まして女房となるとさらによく分かる。

 私の女房も同じ質問を受けたら「別の男性と結婚します」と答えるであろう。要は菅首相は「将のなかの将たる器ではない」と言うことだ」

 夫人から慕われる「将に将たる器」の人物がそういるわけではない。私が知っている限り二人いる。一人は大東亜戦争でフイリッピン・バターン半島の「死の行進」の責任を問われ銃殺刑になった開戦時の比島方面軍司令官・本間雅晴中将と東京裁判で絞首刑となった広田弘毅元首相である。

 本間中将の場合、投降した7万5千人の米比兵がバターン半島60キロを行進させられ、途中マラリアなどで多くの兵隊が死んだ。その責任をすでに退役になっていた本間中将が負った。米軍は昭和20年12月5日『SCAP規定』と呼ばれる裁判規定を発布し、本間中将を起訴し、裁判を開始する。弁護団の要請により証人として出廷した夫人の富士子さん(昭和63年1月死去)は次のように証言する。「二人の娘がおります。嫁ぐことになりましょう。その時は必ず本間のような男性を選びます。私は本間の妻であることを誇りに思っています。子供達も立派な父を持ち得たことを心から誇りに思っています」。傍聴席のアメリカ人たちからどよめきの声が上がったという。本間中将は昭和21年2月11日死刑の判決を受け、4月3日処刑された。時に59歳であった。

 本間中将は新潟県佐渡の出身、陸士19期、陸士・陸大ともに恩賜。若い時から文筆に長じ文化人であった。少佐の時に教育総監部入選歌「朝日に匂う」を作詞している(曲・戸山学校軍楽隊)。3番の詩に言う。「君の恵みの深ければ 内に平和の栄あり 国の守りの堅ければ 外、侮りを受けずして 文化の流れくみ分けて 進む一路は極みなし」作家児島襄は「平和、文化などおよそ軍歌には異例の単語であり、中将の視野の広いインテリぶりをうかがわせている」と称賛する。この戦争裁判も勝者が敗者を裁いた復讐劇である。伊藤正徳がその著書で「バターンの死の行進より本間銃殺の方が“非人道“ではないか」と言わしめるのも無理はない。

 東京裁判で死刑判決を受けた7被告のうち広田弘毅元首相がただ一人文民であった。彼を死刑に導いたものは広田内閣の時に成立した「国策の基準」(昭和11年8月11日)だといわれている。これこそ日本の不法侵略の意図を固めたものであると検察官、裁判官はみた。昭和15年7月の「基本国策要綱」も「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」も広田内閣の「国策の基本」に従い、これを発展したものにすぎないとされた。夫人静子さんは昭和21年5月3日の開廷日。6日と裁判を傍聴して「この裁判は聞く耳を持たないという裁判らしいわね」という感想を持つ。3男正雄夫人いづみさんは静子夫人について「おそばにいるだけで春風に包まれているような温かさを感じましたと語る。夫人は5月14日、巣鴨拘置所に夫を訪ねたあと5月18日朝、薬物により自決を遂げた。享年62歳であった。生前「パパを楽にしてあげる方法がある」と言っていたという。

 夫人静子さんは玄洋社幹部、月成功太郎さんの次女で、生家も福岡市の隣町同士であった。広田さんが東京帝国大学卒業後外交官試験準備のために下宿していた借家に静子さんがお手伝いに来ていたこともある。もともと広田さんは子供のころから静子さんに注目していた。自身も恋愛結婚であったと告白している。妻の死を3男正雄さんから告げられた広田元首相は2度、3度とうなずき一言も感想は述べなかったという。

 昭和23年12月23日広田元首相は板垣征四郎大将、木村兵太郎大将と共に処刑される。遺言・板垣大将(ただ“無”または“空”)、木村大将(俺がお前たちの道しるべになってやる)(夫人に)、広田元首相(別に何もないようですから、どうもありがとうございました)(教誨師)であった(児島襄著「東京裁判・下・中公新書」。

(柳 路夫)