2010年(平成23年)1月20日号

No.492

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花ある風景(407)

並木 徹

 井上ひさし作・平淑恵の一人芝居「化粧」

 
  こまつ座主宰・井上ひさし作・平淑恵の一人芝居「化粧」を見る(1月10日・新宿・紀伊国屋ホール)。初演は昭和57年12月、今から28年も前である。当時、井上さんは「過去と現在との、二つの『時』をぴたりと重ね合わせてやったぞ」「劇中劇の構造を台詞文体で書き分けたのは,本邦で俺一人」と思ったと高揚した気分で書いている。この「化粧」を私は平成元年10月に見ている。五月洋子は渡辺美佐子ではなく西山水木、市川辰三を辻萬長が演じている。22年前で出来ばえなど全く記憶がない。今回の感想を友人に聞くと「現か幻か、わからないところがいいのよ」という。私には大衆演劇の女座長・五月洋子・46歳の健気さと悲しさだけが心に残った。また劇中劇「伊三郎別れ旅」の最後に伊三郎が「おっかさん」と叫ぶところがなんとも言えなかった。ここのシーンが4歳で父と死に別れ孤児院に預けられた井上さんの一番言いたかったセリフかもしれない。井上さんの母親は孤児院に行くのをぐずっている井上さんに「子を捨てる藪はあっても自分を捨てる藪はない」といったという。

 演出の鵜山仁さんは「芝居の方が実体であり、実人生がむしろ影ではないか。(略) 現実の人生をぐんと超えた、目に見えない世界こそ、実体がある気がしてなりません」という。「目に見えない世界」を見える人が少ないがいるようである。井上さんはその一人かもしれない。平成元年の公演の際に頂いたブログラムによれば井上さんは「化粧の仕立は、かって子供を捨てたことのある大衆演劇の女座長が、自分でもそれと知らぬ間に、出し物芝居を使って自分で自分の行為を許し、自分勝手な、都合のいい欺瞞をやっているのを、出演依頼に来たテレビ局員が鋭く剔出するというもの。自分のごまかしを指摘された彼女は、一時荒れ狂いますが、やがて自分の薄汚れたところに気が付き、自分の本当の姿を発見し、そのことを通して新しい自分を築いてゆく。つまり主題は自己発見でした」とある。五月洋子を演じた平淑恵は「彼女は化粧することによって悲劇もフィクションに置き換えてゆきます。そうしなければ生きていられない。化粧の中に自分の人生を映し込み、自分の世界に中で生きていくしかない女の哀れさ・・・」と表現する。このお芝居には、井上さんは「観客の想像力」も加味した。見ている私にはその観察力”が不十分であった。一日たって「なるほど、そうだったのか」思う。だが、井上演劇はこれまでもお芝居には見終わってからいろいろ考えさせられることが多かった。その珠玉のようなセリフを反芻した。「観客の想像力」とはこのことと相通じるものがあろう。