2010年(平成22年)10月20日号

No.483

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花ある風景(398)

並木 徹

 米軍の日本兵捕虜秘密尋問所の成果を知る

 善行雑学大学での中田整一さんの「トレイシー・日本兵捕虜秘密尋問所」の講義を聞いた(10月17日・藤沢市善行公民館)。大東亜戦争中、米軍が2342人の日本兵捕虜をトレイシーという暗号名の秘密尋問センターに送り、3週間にわたり尋問。その情報から日本本土における重要個所の詳細な地図を作り上げた事実を知った。それだけではない。ゼロ戦の性能、大和の構造、軍需工場の内部等を調べ、日本を丸裸にしている。これでは必敗である。たとえば皇居地図(作成日1945年1月25日・スケッチ・ナンバー809番)、「45、防空壕」とある。ここは最後の御前会議が開かれた場所である。

 他の資料によれば、防空壕作りには次のようないきさつがある。昭和天皇の『帝都が焼け野原になっても宮城に踏みとどまりたい』という決意であったので、飛行機を飛ばして場所を選定、吹上御苑内と大宮御所内の茶畑を候補地と選ぶ。防空壕は大林組の手で1350平方メートルの瀟洒な様式平屋建て地下室付きにであった。防諜の手前、外部的には「お文庫」と称した。昭和18年1月8日から使われた。さらに「お文庫」から200メートル離れた望岳台近くに「大本営地下室」を着工した、鉄道レールまで徴発し,地下30メートル、内部は鉄筋コンクリート、2350平方メートルの中に60平方メートルの会議室を中心に電気、通信の二室を設け、経費百三十万円、兵隊延べ人員二十万人、五十日間の昼夜兼行の突貫工事で出来上がった。爆弾なら10トン級まで耐えられるという。「お文庫」から地下道でつながっている。ここが「45、防空壕」である。皇居が空襲されたのは昭和20年2月25日。女官部屋が焼夷弾攻撃に見舞われたほか大宮御所正門わきの守備隊司令部へ小型爆弾が落ち、木造兵舎が吹っ飛び将校以下十数名の戦死者が出た。次いで3月10日の東京大空襲である。死者は十万を超える。東京は焼け野原になった。昭和19年6月サイパンが米軍の手に落ち、9月にはグアム、テニアンも奪われ、B29がここから日本本土へ空襲できるようになったからである。

 当時、B29に対抗できる飛行機『雷電』を作っていたのは三菱重工業の名古屋工場であった。米軍は日本兵捕虜から飛行機のエンジンを製作している工場と組み立て工場の詳細な見取り図を作り上げていた(スケッチ・ナンバー841番)。これに基づいて名古屋空襲が始まった。三菱発動機第4発動機工場が爆撃さされたのは昭和19年12月13日である。12月18日には組み立て工場が空襲にあう。昭和20年は6月17日以降月末まで愛知県下が爆撃される。それは無差別絨毯爆撃であった。この名古屋空襲の際、落下傘で降下した米軍の搭乗員27名が捕虜となり、処刑された。敗戦後、米軍の軍事法廷に立った岡田資中将は「米軍の無差別空襲の非道を説き、国際法違反と断じ、責任の一切は自分ひとりにある」として処刑されたのは有名な話である。詳細な地図と見取り図があれば何も無差別空襲をしなくてもと思うがそれが戦争である。最後に中田講師はトレイシーの尋問官長ウイリアム・ウッグート(予備役海軍少佐)が日本の敗戦直後戦力爆撃調査団の仕事を終えた後再びGHQの要員として来日。靖国神社の存続に力を貸した話をされた。有益な一日であった。