1998年(平成10年)10月10日(旬刊)

No.54

銀座一丁目新聞

 

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ヒマラヤの虹(24)

峰森友人 作

 慶太が寝袋の中で目を覚ました時、百合の姿はなかった。身支度をして既に明るくなっている外に出ると、宇宙が果てしなく続いていることの証明であるかのように空の底は限りなく深く青かった。

 「お目覚めですか」

 百合がにこやかに寄ってきた。昨夜の暗い話しの後とは信じられないような晴れやかな顔をしている。細い黒の縦縞の入ったダークグリーンのクルタクロワールにプレゼントした黒のカーデガンを羽織っている。遠くにかすかに見える白い尾根、周りの山の緑。慶太の眼前は豊かな色に満ちていた。

 「さっき、ウダヤという青年が来ました。ヘルスポストにいるので、用があれば言って下さいって」

 明るい光の中で見る百合は、丁寧に化粧をし、口紅も頬紅も鮮明だった。これだけ確かな化粧をしている百合を見るのは初めてだった。もともとしっかりとした線の眉は、いっそうくっきりと浮かび上がっている。慶太は百合の美しさに見とれた。百合は見詰められるのが眩しそうに、

 「お母さんが、大家さんのことですけど、先程近所の人に卵を譲っていただく話しをしてくれました。だから佐竹さんの朝の定食のゆで卵が出来ます。それに昨日作ったガーリックスープも残っていますので、朝食のサタケ・スペシャルは万全です」

 百合は嬉しそうにトレッキング中の慶太が常食とした朝食メニューを披露した。

 「私、これからそこの家へ卵を取りに行ってきますので、コンロを外に出して、スープを温めていただけますか。あ、コンロの使い方分かるかしら・・・」

 百合はこう言って、結局自分でコンロを持ち出し、火を点け、その上に鍋をかけて出かけて行った。慶太は自分と百合の寝袋を外に持ち出して、朝の太陽に当てた。日差しはまだ弱かったが、それでも優しい光が昨夜染み込んだ悲しみをきれいに追い出してくれそうな気がした。灯油コンロをじっと見ていると、鍋の中のスープがゆっくりと動き始めた。コンロの小さな炎が確実に熱を伝えている。太陽の光も、コンロの光も、今の慶太には何よりもの力を与えてくれそうな感じがした。百合がにこにこ顔で戻ってきた。

 「三ついただいてきました。佐竹さんの分二つと、私の分も」

 百合は部屋の奥から、食器を持ち出してくると、軒下に立てかけてあった床几を庭に下ろそうとしたので、慶太が急いで手伝った。かいがいしく動く百合の姿は、ジャーナリストでも研究者でもなく、一人の主婦だった。慶太はふっと、もしこのままここに百合と一緒に住みついたらどうなるだろうか、と思った。突然慶太も蒸発するのだ。

 慶太は心の中にふっとわいた気持ちを、突然大きな声に出した。

 「こんなのどかな所で、もし君と生活したら、幸せだと思うけど」

 「まあ、私と?そんなことをしたら、一月で後悔しますよ。ご存じでしょ?私は男の人を幸せに出来ない女だってこと。運命は素直に受け入れるの。私何だか一晩で悟りを開いたみたいな感じなんです。おかしいでしょう・・・」

 百合はこう言って、明るく笑った。

 スープと昨日の残ったご飯を食べているうちに卵がゆであがった。百合はすかさず紅茶用の湯を沸かし始めた。一つのコンロだけに、それを遊ばせることがないよう百合は極めて手際よくことを運んだ。

 「本当にこんな所までよく来て下さいました。私はとっても元気付けられました。これで佐竹さんには安心してニューヨークにお帰りいただけます。山村百合は無事でした、と報告していただく人は・・・、いませんね。まあ、残念、アハハハハ・・・」

 慶太には百合の明るさにかえって胸が痛んだ。

 「あ、そうだ」

 百合はこう呟いて立ち上がると、部屋からビニール袋を持ち出してきて、

 「これ、ちょっとした記録なんです」

 と、袋から小さなケースを取り出した。

 「これマイクロカセットテープです。取材の時私があくまでも自分のメモ代わりに使っているものなんです。手紙に岩崎のことを書きましたわね。あの時、岩崎がしゃべったことが全部この中に入っているんです。動かぬ証拠、というより権力を振るう男のあわてぶりがどういうものかが分かるおもしろい代物です。インタビューが終わって挨拶の時、私はテーブルのテープレコーダーの上に手に持っていた質問をメモした紙を置いて、そのままだったのです。お客様やスタッフが部屋を出てすぐ、岩崎が大山のことを話し出したので、私はテープレコーダーを止めるのをすっかり忘れていました。無残な格好になってから片づけようとしたら、テープレコーダーはメモ用紙の下でオンのままでした。音声と共に始動して、声が聞こえなくなると止まる会議録音用で、とてもクリアに入っています。手紙に書いたことは、ちゃんと記録に基づいたものだったんですよ」

 慶太はまたまた百合の口から驚くべきことを打ち明けられた。岩崎宗太郎はまさかこんな記録が残っていようとは、想像もしていないだろう。百合が黙って急いで退職したので、すべては終わったと高枕に違いない。「記者は攻めは強いのに守りが弱い」と言ったのは美穂子だった。

 「それで、このテープをどうするつもり?」

 「どうもいたしません。ただ何となくだれかに預けたいと思ったので。そうなると、岩崎のことや何もかもお話ししたのは、佐竹さんですから、やはり佐竹さんに預かっていただいたらと、今突然思い付きました。どこかに捨てて下さって結構です」

 百合はまた明るく笑った。

 「百合! 君はこれからどうするつもり?」

 「どうするって・・・」

 百合はちょっと詰まった。

 「調査の方はこれまでも整理しながらやってきたから、もうまとめを書くだけでいいんです。だからカトマンズの美穂子さんの所に移って、パソコンを借りて書き上げようと思います。そうすれば、そうね、もう一週間もかからないと思います。それで調査の仕事は終わり。だから、今日桜ちゃんが帰ってきたら、ここも引き払う話しをして、あしたにでもトリジャを迎えに出して・・・。となると、あさってぐらいには、トリジャとカトマンズへ行くことになるかしら」

 「それで、君の検査は?」

 「私?そうね、私はカトマンズでやるのはよくないから、東京に帰ることになるかしら。でも東京で検査したからといって、よくなるわけではないし・・・」

 慶太はじっと百合を見た。

 「僕はね、最近つくづく考え始めているんだ。長生きは大事だけど、ただ長生きさえすればいいというものでもないってね。僕は自分自身のことを言ってるんだ。まったく僕個人だけのこと。つまり僕は自分が納得出来る美しい死に方をしたいって。例えば・・・」

 と言いかけて、慶太は言いよどんだ。

 「例えば?」

 百合が聞いた。

 「例えば・・・、例えば自分の好きな人がエイズと分かれば、その人とエイズを共有するとか・・・」

 「まあ、そんな不謹慎なことをおっしゃってはいけませんわ」

 百合はにこやかに、母が子を諭すように言った。

 「そういうことをしてはいけないの。理性的ではありませんよ。佐竹さんは危険思想の持ち主なんですね」

 「いや、今君が取り合ってくれないなら、こういう話しはとりあえず止めにする。でもいずれにしても僕に出来ること出来ないこと、ともかく連絡して下さい。君がカトマンズを離れたら、なるべく早く会おう。そうだ、ニューヨークがいい。ニューヨークできちんと検査して、そして岩崎にどのような償いをさせるかも考えよう。それまでテープは預かっておく」

 百合は納得したように笑った。

 「僕は君と出会ってから、いろいろと驚かされどおしだったな」

「申し訳ありません。自分ではその時その時一生懸命のつもりなんですが。でも今はちょっと疲れた感じもします。ここらでしばらく本当の休養が必要かも知れませんね。そうすれば、佐竹さんを驚かすこともなくなる・・・」

 百合はちょっと寂しそうにこう言ったが、すぐまた陽気に、

 「このカーデガン素敵だわ。軽くって、暖かくって、とっても着心地がいいの。佐竹さんに代って、カーデガンに見守ってもらうことにします」

 と言った。得意げに腕を広げて、クルタクロワールの上に着たカーデガンを見せる百合を慶太は胸を締め付けられる思いで見ていた。

 「でも本当に報告を書いたら、連絡を下さい。それは君の約束だから。手紙に書いていたでしょう。無事文明に帰還出来たら、連絡するって」

 「ハイ、無事文明に帰還できますように」

 百合はおどけて祈るように手を合わせた。

 お代わりの紅茶もなくなったため、百合は後片づけに立った。慶太も自分の寝袋をたたみ、帰り支度にとりかかった。忘れ物がないかどうか確認するため薄暗い部屋に入った。ベッドの上にヘッドランプが残っている。

 「これ置いていくので、使って下さい」

 と奥にいた百合に声をかけた。その時である。百合がさっと寄って来たかと思うと、慶太に抱きついた。目に涙がいっぱい溜まっている。百合が一度目をしばたたくと、大粒の涙がどっと溢れて、頬を伝わった。言葉もなくしばらく抱き合っていたが、慶太はゆっくりと百合の顔を起こし、髪をなでながら言った。

 「もしお互い生まれ直せることがあったら、その時はもっと早く会って二人一緒の生活を考えよう。その時人違いをしないよう、印をつけておこう」

 慶太はこう言って、髪を書き上げた百合の額にじっと唇を押し当てた。百合は慶太の胸の中で鳴咽した。

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