安全地帯(297)
−信濃 太郎−
鶴岡八幡宮の一件 大銀杏・実朝・公暁
鎌倉に住む友人の安田新一君が鎌倉に関する一文を寄せてくれた。それを紹介する。
昔の文部省唱歌「鎌倉」「上るや石のきざはしの 左に高き大銀杏 問わばや遠き代々の跡」(註・1番は「七里が浜の磯伝い 稲村ケ崎名将の 剣投ぜし 古戦場」である。8番まである)
鎌倉八幡宮のシンボル大銀杏が平成22年3月10日未明、根本を残して倒壊した。それもわずか10数bの風で。原因は寿命、幹の中は空洞であった。何しろ世界遺産申請の運動をしようとしている矢先の八幡宮の珍事、鎌倉市民も大銀杏がブッ倒れたのにはオッタマゲタ。
健保7年(1219)正月27日雪の夜、鎌倉幕府三代将軍源実朝が、甥に当たる兄頼家の子鶴岡八幡宮別当公暁に殺害された際、石段の傍らに聳えたこの銀杏の陰に潜んでいたとか、おまけにそこが13段目であったとか、まことしやかに風聞のある樹齢千年を越える大銀杏である。そこには鎌倉興亡の歴史を秘めて見るも無惨長々と横たわっている。この珍事を一目見ようと私のような物見高い連中が群集し、警備員が出る始末。
幸いその後、神宮が樹木医に依頼して根元を起こしたり枝を挿したりして新芽が芽吹きDNAを残すことに成功したが、景観は大いにそがれてしまったのは返す返すも残念であった。
「親の仇はかく討つぞ!」と父頼家の無念を晴らした公暁(実は何人かの同調者がいたらしく銀杏に隠れるのは無理だろう)(当時神仏混合で多くの僧坊があり、その内の多くに平家一門関係の僧侶がいたのが疑われる)は、叔父実朝の首を切り落とし白布に巻いて小脇に抱えて逃走した。彼はある僧坊に入り食事を所望、首を抱いたまま食べたと言われている。その公暁は行きの裏山を越えようとするが、おそらく目当てであったろう三浦義村邸を目前に、追手に捕まり殺害される。そこで、陰謀の首謀は幕府転覆を狙う三浦義村が公暁を唆してやったのではないかとの説が出てくる。私もその山を実査したことがあるが、なるほど、道無き薮だが山越えするとすぐ下は三浦屋敷(現在横浜国大付小)だ。哀れにもむごたらしい近親相克の事件である。
実朝の首は?三浦一族の武 常晴(現在三浦半島武山の武士)により、彼の別領地にある神奈川県秦野市金剛寺に葬られた。近くに立派な首塚が現存する。
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